/当時のヨーロッパもイスラムもばらばらで複雑でした。しかし、それは目を背ける言いわけであってはなりません。わかりにくいものに立ち向かう勇気、それが哲学です。激動の時代には人々は新しいアイデアを求めるでしょう。また、それらには一連の流れがあります。/
「裕福なユダヤ人が落ちぶれて追放されたのを見れば、貪欲が人間を滅ぼすと信じたのも当然でしょう」
神聖ローマ皇帝コンラート二世の支援を受けて、ドイツ人教皇レオ九世は教会浄化に熱心に取り組みました。一方、ノルマン人はすでに北フランスを占領し、ノルマンディー公の称号を主張し、さらにイベリア半島を周回して地中海に入り、1048年には北アフリカも占領していました。教皇レオ九世は南イタリアに侵攻してきたノルマン人と戦いましたが、戦死しました。
「ノルマン人せいで、問題はさらに複雑になりました」
その後、数人の聖職者が教皇権を争っている間に、ノルマン人は南イタリアを獲得してしまいました。ニコライ二世はむしろノルマン人と結び、1059年に対立教皇を武力で破り、さらにノルマン人にシチリア島をイスラム教徒から奪還させました。ノルマンディー公も1066年にイングランド王位を奪いました。ライン河ユダヤ人ともに、神聖ローマ皇帝ハインリヒ四世はサクソン人を搾取し、対立教皇を任命して教会に介入しました。サクソン人諸侯が彼に反乱を起こしたとき、ノルマン人と結んだ教皇グレゴリウス七世も彼を破門し、帝位を剥奪しました。そのため、ハインリヒ四世は 1077年、教皇グレゴリウス七世に謝罪するため、カノッサを訪れなければなりませんでした。
「教皇、皇帝、ノルマン人、ユダヤ人、これらは厄介なオールスターだった」
北東ペルシアの数学と天文学の天才、オマル・ハイヤームは、セルジューク朝に招かれ、ヨーロッパのカレンダーよりも正確なジャラーリ暦を作りました。彼は才能ある詩人でもあり、ワインと美女を称賛しながらも無常感に満ちたルバイヤート(四行詩)を数多く書きましたが、宗教的非難を避けるために公表しませんでした。
ハイヤームと同じ地方出身のペルシア人、アル・ガザーリ、別名アルガゼルスは地元のニザミエ学校で学び、首都バグダッドのニザミエ学校の教授に任命されました。彼は正統的な法学と神学を基礎としていましたが、ウラマー(知識人)の空虚な権威とイマーム(預言解釈者)への盲従に危機感を抱き、スーフィズムを学んで、神の非物質的な形而上学を探究しました。
「セルジューク朝は人材を採用することに長けていましたね」
英国ではカンタベリーのアンセルムスも実在論として神の形而上学を試み、神は最も偉大な存在であり、人間の思考を超えたものだから、実際に存在する、と主張しました。これに対して、パリ北東部の修道士、ロスケリヌスは、もし神が実体なら、創造主も聖霊もイエスとともに受肉したことになる、として、「神」は言葉の名前にすぎない、と主張しました。
歴史
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2024.11.19
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。