/当時のヨーロッパもイスラムもばらばらで複雑でした。しかし、それは目を背ける言いわけであってはなりません。わかりにくいものに立ち向かう勇気、それが哲学です。激動の時代には人々は新しいアイデアを求めるでしょう。また、それらには一連の流れがあります。/
北ドイツのザクセン公国は、北のノルマン・デーン人、北東のスラブ人、東のハンガリー人による 侵略に苦しんでおり、東フランク王は名ばかりで無力だったため、ザクセン公は自分で彼らを撃退しなければなりませんでした。それで919年、サクソン人でありながら、ハインリッヒ一世が東フランク王となりました。同様に、シリアのクルド人は、ウマイヤ朝やシーアのイマーム(預言解釈者)を拒否するハワーリジュ・シーアに属し、人種や民族に関わらず名誉ある人物がカリフになるべきだと信じており、ハムダーン朝を樹立して、アッバース朝カリフをアミール(宰相)として支配しました。
「家柄より能力重視の時代が始まりましたね」
文化競争
しかし、ビザンツ皇帝コンスタンティヌス七世は、ノルマン人キエフ、ザクセン人東フランク、イベリアの後ウマイヤ朝との外交関係で ブルガリア帝国を押し返しました。「オルフィロジェンネトス(紫の皇宮生まれ)」と呼ばれたように、彼は教養高い人物で、本や学者に囲まれ、歴史や自然を学び、美術品や工芸品を集め、みずからも著作や絵画をたしなみました。彼の皇后も十分な教育を受けており、彼とともにそれを楽しみました。こうして、彼らは学者や芸術家の後援者として「マケドニア・ルネサンス」を導きました。
「文化も能力です。彼らの宮廷は文化的なサロンで、だれもがこの夫妻と交際したいと思っていたでしょう。一方、荒廃した西ヨーロッパでは何が起こったのでしょうか?」
姦婦マロツィアは獄中で殺され、彼女の孫である教皇ヨハネス十二世は教皇領の拡大に失敗し、彼を助けてくれた東フランク王オットー一世を、962年、「神聖ローマ皇帝」に戴冠させなければなりませんでした。オットー一世は息子をビザンツ皇女と結婚させ、イタリアにマケドニア・ルネサンスをもたらしました。
また、バグダッドのアッバース朝カリフはイランの十二シーアのブワイフ朝に奪われましたが、アレッポにあるハムダーン朝の宮殿は、バグダッドに代ってイスラム文化の中心地となりました。勇気と機知に満ちた詩を書いた詩人アル・ムタナッビや、天文観測のアストロラーベを発明した女性天文学者アル・イジリィヤー、別名マリアム・アル・アストルラビヤなど、 多くの有名人がここから出ました。
イベリアの後ウマイヤ朝も首都コルドバのザフラー(花)宮殿に40万冊の図書館を備えた世界初の大学を設立し、イスラム圏だけでなくヨーロッパからも多くの学生を集めました。
歴史
2023.09.30
2023.10.12
2023.11.05
2023.11.12
2024.02.23
2024.02.26
2024.07.16
2024.10.21
2024.11.19
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。