/当時のヨーロッパもイスラムもばらばらで複雑でした。しかし、それは目を背ける言いわけであってはなりません。わかりにくいものに立ち向かう勇気、それが哲学です。激動の時代には人々は新しいアイデアを求めるでしょう。また、それらには一連の流れがあります。/
「もう文化競争ですね。ここで、この教程でようやく女性学者も登場しました」
965年にノルマン人キエフとブルガリア帝国がハザールを破ったため、ハザールの改宗ユダヤ人は西のハンガリー、さらにはスラブに逃げ込みました。北アフリカのイスマーイール・シーアのファーティマ朝は969年にエジプトを征服し、新首都カイロを設立して、シリア南部に勢力を拡大しましたが、983年に北アフリカはスンニ派ズィール朝として独立しました。
ユダヤ人を加え、ハンガリーは宿敵ブルガリアに侵攻し、ビザンツは1001年、ついにブルガリアを征服しました。そのため、ブルガリアのボゴミル派も西ヨーロッパに逃げなければなりませんでした。
「みんなまた引っ越しましたね。西暦1000年に教会はなにか行事をしなかったのですか?」
彼らはイエスが生まれた正確な年を知りませんでした。それで彼らはとりあえず代わりに、多くの殉教者を出したディオクレティアヌス帝の「殉教年代」を使っていました。それは西暦284年が元年で、西暦1000年は彼らには殉教暦716年にすぎませんでした。
「彼らにとって千年紀は、あいかわらず漠然とした謎だったのか」
辺境からの革新
313年のコンスタンティヌス帝によるミラノ勅令で信教の自由が認められた後、ケルンにユダヤ人コミュニティが出現しました。フランク王国はイベリア半島からイスラム教徒を撃退するために財政支援が必要だったので、彼らに優遇措置を与え、10世紀になると、イタリアやフランスから多くのユダヤ人がライン川に移住し、長距離貿易を担いました。とくにマインツにはユダヤ教学校「イェシヴァ」があり、彼らの文化の中心地となりまし。
「それになにか問題でも?」
ブルガリアを追われたグノーシス系ボゴミル派も、そこに逃げてきました。彼らはカタリ派(純粋派)としても知られ、特権階級のユダヤ人だけでなく、カトリック教会や政治的腐敗も憎んでいました。彼らはそこで虐げられていた多くの庶民や農民から新たな支持を得ました。
「ここは、いつか発火点になりそうだ」
中央アジア北部のサマルカンドでは、ペルシア人がテュルク系遊牧民と戦い、892年にサーマーン朝を建国しました。敗戦奴隷を宗主国アッバース朝に送りましたが、それはテュルク人の戦闘能力を高く評価し、私兵マムルークに組織しました。彼らは奴隷でありながら、アッバース朝の直属の指揮官として、むしろ周囲の部族、サーマーン朝さえ支配しました。
歴史
2023.09.30
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2023.11.12
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2024.11.19
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。