十字軍:世界の激動と文化の競争

画像: イベリアのザフラー宮殿

2024.07.16

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十字軍:世界の激動と文化の競争

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/当時のヨーロッパもイスラムもばらばらで複雑でした。しかし、それは目を背ける言いわけであってはなりません。わかりにくいものに立ち向かう勇気、それが哲学です。激動の時代には人々は新しいアイデアを求めるでしょう。また、それらには一連の流れがあります。/

「これも近いうちに大火事になりそうです」

しかしサーマーン朝は、サーサーン朝後継者としてブハラの宮廷でペルシア文化を復活させました。セルジューク族などの一部のテュルク系遊牧民は、同じテュルク系なのにアッバース朝の奴隷となったマムルークたち嫌って、あえてイスラム教に改宗し、より優雅で寛大なサーマーン朝に仕えました。

「彼らの誇り高い目には、マムルークは最悪の裏切り者だった」

サーマーン朝のペルシア人、イブン・シーナ、別名アヴィセンナは、同じ中央アジア出身の先学者であるアル・ファーラビーの本を通じてアリストテレスを知りました。

彼は宮廷医師となりましたが、999年にサーマーン朝がアフガニスタン南部のテュルク系マムルークのガズナ朝によって滅ぼされたため、引っ越し、イランの十二シーア派ブワイフ朝に仕えなければならず、そこで彼は『医学規範』と哲学的な『癒しの書』をまとめました。

サーマーン朝の喪失により、ペルシアの老詩人フェルドウスィも混乱していました。彼は、ペルシアの王と英雄の叙事詩『シャーナーメ』を三十年がかりで書いていました。それが完成し、彼はやむなくガズナ朝に献呈しましたが、テュルク系マムルークには容認しがたいものでした。

「テュルク人はそんなペルシア文化を歓迎しないでしょう」

エジプト・ファーティマ朝のカリフ・アル・ハーキムはイスマーイール・シーア派思想を徹底し、自分がみすぼらしい服装をするだけでなく、庶民にもワインや音楽、入浴すら禁止しました。彼はエルサレムの聖墳墓教会も破壊しました。彼はファーティマ朝を拡大し、シリアのクルド人ハムダーン朝を吸収しました。彼はバグダッドのアッバース朝のバイトル・ヒルマに匹敵する科学館ダル・アル・イルムを首都カイロに設立しました。

「それは、活気に満ちたアレッポのハムダーン宮廷文化をカイロに移植しただけでしょ」

1016年、かつてのサーマーン朝首都ブハラからペルシア人のアル・ダラズィーがカイロにやって来て、新しいカルト、ドゥルジズムを説きました。それはもはやイスラム教ではなく、ギリシャ哲学の影響を受け、独自の理性神を崇拝し、人間の輪廻を信じる一神教ユニテリアン主義でした。アル・ダラズィーはカリフ・アル・ハーキムこそ神の化身だと主張し、爆発的な支持者を獲得しましたが、アル・ハーキムは彼を嫌い、1018年に処刑しました。にもかかわらず、ドゥルーズ教はレバントの一大勢力となりました。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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