/平等だが協調なき顔無しの人々、大衆。彼らはそれぞれ無知と誤解に満ちた異なる歴史の異なる世界に生きています。人権の全能感と無名の劣等感のコンプレックスが、つねに彼らを不平と不満で苦しめ、他人との比較と競争に駆り立てますが、実際は確率に支配されています。そのため、彼らは無責任で、他人に便乗したがり、一時的な連帯感を得るためにいつも共通の敵を探しています。/
「それは歴史の皮肉だった。人は手に入りにくいものを欲しがる」
それで、一部の商人は新大陸から綿花を輸入し、独自のパターンプリントを施して、インド綿織物の模造品を作り始めました。さらに、各国海軍も、リネンの代わりに、無地の綿織物を帆布に使い、安価な作業服素材として転用しました。こうして綿織物の需要が急増し、すべての国が新大陸と北アフリカの綿花をめぐって争いました。
「このようにして、王族から下級労働者まで、だれもが同じ綿の服を着た」
英国では、北西部のリバプールが新大陸との港でした。都市のジェントリの中には、水路で港と結ばれた故郷(マンチェスター、ランカシャー、ウェスト&サウス・ヨークシャー)に戻り、みずから綿産業を始める者もいました。それはまだ個人事業主の寄せ集めでしたが、特許を無視し、ケイ(1704-c79)の鉄櫛織機(1725)や飛び杼(1733)を使い、生産性を劇的に向上させました。怒ったケイは、フランスに渡り、ノルマンディー(1747-)で自分の発明品を普及させました。
「発明家が報われない時代でしたね」
ランカシャーの綿産業の貧しい労働者ハーグリーブス(1720頃-1778)は、八本の糸を同時に作れるジェニー紡績機(1764年)を発明し、糸供給業者として独立しました。しかし、失業寸前の紡績労働者に攻撃され、他の糸供給業者が彼の機械を模倣したため、1768年に南のノッティンガムに移らざるをえませんでした。彼の友人で、かつら職人だったアークライト(1732年-1792年)も彼と一緒に行き、1771年にノッティンガム北西20キロのクロムフォードに小さな自動紡績工場を建てました。水車小屋の機械は、熟練労働者なしで綿花を繊維にし、さらに糸にしました。
「それが産業革命と資本主義の夜明けだった」
22.6. 列歩兵部隊
継承戦争はポーランド(33-38)やオーストリア(40-48)でも繰り返され、ジョージ王戦争(1744-48)などの新大陸での紛争も引き起こしました。プロイセンとオーストリアの間でシレジアをめぐって起こった七年戦争(1756-63)は、新大陸のイギリス東海岸植民地とフランス中西部植民地の間で起こったアパラチアをめぐるフレンチ・インディアン戦争を伴いました。
「18世紀は戦争が絶えなかった」
軍事的負担と財政的費用は各国の社会と経済を破綻させました。どの国も新領主将軍以外に常備軍を持っておらず、そのつど暴漢や農民から兵士をかき集めるか、傭兵を抱える自由将軍に頼っていました。
歴史
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大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。
