/平等だが協調なき顔無しの人々、大衆。彼らはそれぞれ無知と誤解に満ちた異なる歴史の異なる世界に生きています。人権の全能感と無名の劣等感のコンプレックスが、つねに彼らを不平と不満で苦しめ、他人との比較と競争に駆り立てますが、実際は確率に支配されています。そのため、彼らは無責任で、他人に便乗したがり、一時的な連帯感を得るためにいつも共通の敵を探しています。/
そのとおり。彼らはみずから決定する人権を得ましたが、その結果、平等ながら他者と協力できなくなり、自分で混乱を招いて、自由も友愛を失いました。ヘーゲルの考えとは逆に、彼らには共通の理念はなく、ただ共通の敵がいるだけでした。そのため、敵を倒した後の解決策は、1793年から1794年にかけてのロベスピエール(1758-94)の恐怖政治だけでした。
22.9. ナポレオンの改革
以前、フランス王の軍隊はスイス傭兵で成り立っていました。一方、ブルジョワ(不在ジェントリ)は各都市で治安維持のために自警団を結成していました。革命が起こると、彼らは国民衛兵となり、王の軍隊を倒しました。ロベスピエールは、新大陸での黒人奴隷を禁止する一方で、国民衛兵を80万人以上に増強し、政敵を虐殺する駒に利用しました。
「徴兵はすべての国民を彼の奴隷にした」
しかし、彼らはロベスピエールに忠誠心がありませんでした。1794年、テルミドール派が彼らを掌握し、ロベスピエールを処刑しました。しかし、急進的なブルジョワと王政復古派は、穏健なテルミドール派が不満でした。そこで、テルミドール派は国民衛兵から忠誠を誓った兵士だけを集め、国民公会軍を新たに創設しました。1795年に王党派が暴動を起こすと、若きナポレオン(1769-1821、26)は新しい国民公会軍を率いてパリの真ん中で散弾大砲を撃ち、これを鎮圧しました。
「穏健派の決然たる士官なんて矛盾している。彼はいつか穏健派も倒すだろう」
その後、彼はイタリア遠征に出て、エジプトにも行ったが、革命戦争の拡大で、政治はより不安定になりました。それで、ナポレオンは1799年にブルジョワに支持されたクーデタで執政官となりました。そのゆえ、彼はまずブルジョワの利益のために、新大陸での黒人奴隷制を復活させ、ふたたび連中を征服しました。
「彼は革命の理想より革命の利益を代表しただけだった」
ナポレオンはまた、数万人の兵士を擁する六つの独立した総合軍団として、軍を再編しました。これらはそれぞれ軍隊として行動するので、革命フランスは同時に全方位に対応できました。一方、新大陸の米国は、ナポレオンとの戦争に備えて、発明家ホイットニー(1765-1825)に新しい標準マスケット銃を開発させました。それは機械治具のガイドで製造されるため、未熟練労働者でも製造でき、さらにすべての部品が均一で互換性があるため、兵士は戦場で簡単に修理できるはずでした。
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大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。
