/ユダヤ人(セファルディム、ローマン、アシュケナジム)やシーア・イスラム諸派、クルド人、グノーシス・カタリ教徒、ドルーズ(ムワヒドゥン)教徒、現代でも紛争の種となるこれらの人々は、中世の東西文明の軋轢から生まれた。/
「彼らは、いつか火種となるでしょうね」
ササン朝(226-651)の後継者として、サーマーン朝はブハラ宮廷でペルシア文化を復興させました。しかし、宗主であるアラブのアッバース朝は、直轄私兵の奴隷マムルークを通じ、中央アジアを監視しようとしました。セルジューク族などのテュルク系遊牧民は、マムルークを遊牧民の裏切り者として嫌い、あえてイスラム教に改宗して、ペルシアのサーマーン朝に仕えました。しかし、テュルク系マムルークは、アフガニスタン南部にガズナ朝(977-1186)を建国し、999年にはペルシアのサーマーン朝を滅ぼしました。
13.03. 周縁からの革新:11世紀前半
「教会は西暦1000年になにか記念行事をやらなかったの?」
彼らはイエスの生誕年を正確に知りませんでした。そこで彼らは、ディオクレティアヌス帝の迫害によって多くの人が殉教した西暦284年を始めとする殉教紀を当面の基準としました。つまり、西暦1000年は、教会にとっては716年にすぎませんでした。
「彼らにとって千年王国は依然として漠然とした神話だったのか」
一方、サーマーン朝を失ったことで、古代ペルシアの詩人フェルドウスィー(940-c1019)や、中央アジアの若き医師イブン・シーナー(980-1037)、別名アヴィセンナは、困惑していました。フェルドウスィーはペルシア王叙事詩『シャー・ナーメ』を30年かけて執筆しました。完成後、彼は渋々、テュルク系マムルーク人ガズナ朝に提出しましたが、歓迎されるわけがありませんでした。イブン・シーナーは、自分と同じ中央アジアのアル=ファーラビー(c870-c950)を通してアリストテレスを研究していたものの、イランの十二イマーム派ブワイフ朝に仕えるほかなくなり、そこで『医学典範』と哲学書『治癒の書』を編纂しました。
「サーマーン朝の宮廷には知識人が大勢いたけど、彼らも行き場を失っただろう」
エジプトのファーティマ朝において、カリフ・アル=ハキム(c985-th96-1021)はイスマーイール・シーア派の思想を徹底的に実践しました。自分が粗末な衣服を身につけただけでなく、一般民衆にもワイン、音楽、そして入浴さえ禁止しました。また、エルサレムの聖墳墓教会を破壊しました。彼は帝国を拡大し、シリアのクルド人ハムダーン朝を吸収しました。首都カイロに、バグダードのアッバース朝のバイト・アル=ヒクマに匹敵する科学の中心、ダール・アル=イルム大学を建設しました。
歴史
2024.02.23
2024.02.26
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2024.10.21
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2025.03.08
2025.06.12
2025.07.16
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。
