/ユダヤ人(セファルディム、ローマン、アシュケナジム)やシーア・イスラム諸派、クルド人、グノーシス・カタリ教徒、ドルーズ(ムワヒドゥン)教徒、現代でも紛争の種となるこれらの人々は、中世の東西文明の軋轢から生まれた。/
「それは、アレッポの活気あるハムダーン朝宮廷文化をカイロに移植したようなものだ」
1016年頃、フェルガナの異端ムワッヒドゥーニスト、ハムザ・イブン・アリー(c985-1021)とアル=ダラジ(?-1018)が、滅亡したサーマーン朝からカイロにやって来ました。二人は対立しつつも、説教において競い合いました。彼らはカリフ・アル=ハキムこそ神の化身であると主張しましたが、アル=ハキムは彼らを嫌い、処刑しました。しかし、ムワヒドゥン主義(ドゥルーズ派)はレヴァント地方で勢力を拡大しました。
「ファーティマ朝のイスマーイール・シーア派が彼らを招き入れたに違いない」
ハンガリーはテュルク系に改宗したカライ派ユダヤ人も加え、最終的に宿敵ブルガリアに侵攻し、1018年にビザンチン帝国がブルガリアを滅ぼしました。ブルガリアのグノーシス・ボゴミル派はヨーロッパに逃れました。彼らはカタリ(清純)派としても知られ、ユダヤ人だけでなくカトリックの政治的腐敗も憎んでいました。彼らは、多くの虐げられた人々、近隣住民、そして農民から新たな支持を得ました。
「彼らもいつかは厄介者となるだろう」
1021年、カリフ・アル=ハキムが突如行方不明になりました。ムワッヒドゥーニズムは勢力を増したものの、ファーティマ朝は衰退しました。これにより、さまざまなな宗教の巡礼者がエルサレムを訪れることが可能となり、エルサレムは国際貿易拠点として繁栄しました。レヴァント地方に拡大したムワッヒドゥーン教徒たちは、もはやイスラム教ではなかったかもしれませんが、ユダヤ教徒やキリスト教徒とも友好的でした。1023年、アマルフィの商人たちは、洗礼者ヨハネ修道院の廃墟に巡礼者のための宿舎を建設し、聖ヨハネ騎士団、ホスピタラーに委託しました。また、西方では、1031年にイベリア・ウマイヤ朝が地方氏族に分裂して崩壊しました。北方のキリスト教西ゴート族の残党と東方のフランク族は、レコンキスタとしてイスラム教のイベリア半島に侵攻しました。
「イベリア半島は、もともとどちらのものでもなったと思うけど」
数多くのクリュニー修道院は、莫大な富を生み出し、教皇や司教の地位をめぐる権力闘争の焦点となりました。とくに1032年に教皇となったベネディクトゥス九世(c1012-th32-48)は、同性愛と聖職売買を繰り返すなど、教会の腐敗の典型でした。彼は教皇の地位さえ売却したため、三人の教皇が同時に存在しました。神聖ローマ皇帝ハインリヒ三世(1016-th46-56)は、1048年に三人とも追放しましたが、彼が就任させた新教皇は、わずか23日後に暗殺されました。
歴史
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大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。
