​十字軍:西洋と東洋の正面衝突(L13)大学標準哲学教程

2025.07.16

ライフ・ソーシャル

​十字軍:西洋と東洋の正面衝突(L13)大学標準哲学教程

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/ユダヤ人(セファルディム、ローマン、アシュケナジム)やシーア・イスラム諸派、クルド人、グノーシス・カタリ教徒、ドルーズ(ムワヒドゥン)教徒、現代でも紛争の種となるこれらの人々は、中世の東西文明の軋轢から生まれた。/

「そもそも、ローマ・カトリックが清廉潔白だったことがあるだろうか?」

かつて滅亡したサーマーン朝に仕えていたテュルク系セルジューク族(1035-1308)は、1035年にペルシア北部のニシャプールに独自の独立国家を樹立しました。逮捕されていたアッバース朝カリフと共謀しして、セルジューク朝首長はスルタン(権力者)の称号を得て、1055年にペルシアの十二イマーム・シーア派ブワイフ朝をバグダードから追放しました。セルジューク朝は、さまざまな主要都市にニザーミーヤ学院を創設し、穏健な法学と神学を教え、地方の慣習や個人の啓示よりも、文典考証と論理考察を重視しました。

「セルジューク朝はテュルク系だったけど、ササン朝やとサーマーン朝のペルシア文化の正統継承者だった」


13.04. 叙任権論争:11世紀後半

イベリア・ウマイヤ朝は経済振興のため、裕福なユダヤ人商人、セファルディムを保護していました。しかし、カトリック教徒のレコンキスタは、彼らも略奪しました。彼らは、ピレネー山脈の向こう、南フランスへと逃れました。腐敗したカトリック教徒に失望し、移民ユダヤ人を恐れた人々は、カタリ派を呼び寄せました。彼らは魂が地上の汚れた肉体に囚われていると信じ、輪廻から逃れるため、禁欲を実践しました。彼らに司祭はいませんでしたが、修道士や尼僧のように暮らすペルフェクティス(完全者)たちが人々を浄化すると信じられていました。

「カタリ派はもともとユダヤ教とカトリック教の両方を否定するグノーシス派のブルガリア人でした」

実際、教会の腐敗は目に余りました。神聖ローマ皇帝コンラート二世(990-th1027-39)の支援を受け、ドイツ人教皇レオ九世(1002-49-54)は教会浄化に尽力しました。一方、ノルマン人はすでに北フランスを占領し、ノルマンディー公の称号を主張していました。さらに、彼らはイベリア半島を周回し、地中海に入り、1048年には北アフリカも占領しました。教皇レオ九世は南イタリアに侵攻してきたノルマン人と戦いましたが、1053年に亡くなりました。

「ノルマン人の出現で、問題はさらに複雑になった」

たしかに。何人もの聖職者が教皇の座を争い、ノルマン人は南イタリアを支配下に置きました。教皇ニコラウス二世(c995-th1059-61)は、むしろノルマン人と結び、1059年に対立教皇を力づくで破りました。さらに、ノルマン人にシチリア島をイスラム教徒から奪還させました。またイングランドでは、1066年に王統が絶えると、ノルウェーのヴァイキング王が侵攻しました。国王の親族は、攻撃を撃退しましたが、大陸側のノルマンディー公ウィリアム(c1028-th35-87)が彼を破り、イングランドの王位を奪取しました。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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