/ユダヤ人(セファルディム、ローマン、アシュケナジム)やシーア・イスラム諸派、クルド人、グノーシス・カタリ教徒、ドルーズ(ムワヒドゥン)教徒、現代でも紛争の種となるこれらの人々は、中世の東西文明の軋轢から生まれた。/
「イスラムと違って、ヨーロッパには自由な研究の余地はなかった」
13.05. 十字軍:12世紀前半
温暖な気候は食料生産を増大させた一方で、ヨーロッパに人口爆発を引き起こしました。さらに、ノルマン人の移住は、土地不足と紛争頻発を招きました。セルジューク朝が小アジアに侵攻すると、ビザンツ帝国皇帝は、1095年、ローマ教皇ウルバヌス二世(c1035-th88-99)に傭兵を要請しました。しかし当時、皇帝と教皇は教会権益にかかわる叙任権をめぐって対立していました。ウルバヌス二世は、これを教皇が権力を取り戻す好機と捉え、クレルモン公会議においてエルサレム奪還のための十字軍を発動しました。
「彼はレヴァントに新植民地を築き、そこに過剰人口を棄てようと計画したにちがいない」
隠者ピョートル(c1050-1115?)は、民衆を扇動し、まずは戦費を得るために、神聖ローマ皇帝ハインリヒ四世を財政的に支援していたケルンとマインツのライン・ユダヤ人を襲撃略奪させました。彼は四万人の民衆を東方に送り込み、ハンガリーのアシュケナジムの村々(改宗したテュルク系ハザール人の子孫)も略奪しました。彼らはビザンツ帝国に到達しましたが、ビザンツ皇帝は略奪者の群れに困惑し、ただちに小アジアへ追放し、彼らはそこで散り散りになり、姿を消しました。
「彼らはまさにひどく貧しい移民だったんだろう」
もちろん、十字軍の正規軍も準備されていました。元軍人の司教が中心的な役割を果たし、イベリア半島でイスラム教徒と戦ったトゥールーズ伯と、ノルマン人として南イタリアを占領したターラント公が、ゲルマン人とノルマン人の騎士たちを率いました。聖職者や一般巡礼者も加わり、十字軍は10万人にまで膨れ上がりました。教会改革運動も勢いを増し、白いローブを特徴とするシトー会は、黒いローブをまとった、腐敗したクリュニー修道会から1098年に独立しました。
「戦争は始まる前だけは楽しい」
ところが、驚くべきことに、十字軍はシリアにかんたんに新植民地を築くことができました。じつは、セルジューク帝国のスルタンは1092年にすでに崩御しており、後継者争いが起こっていたからです。1099年に十字軍がエルサレムに到達すると、彼らはイスラム教徒だけでなく、ユダヤ教徒や東方キリスト教徒も虐殺しました。彼らのエルサレム王国は、ジェノヴァやヴェネツィアとの貿易を独占し、莫大な富を築きました。
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大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。
