/美徳は、時と場によって違い、また、状況とともに変化していき、そもそも当事者の立場によっても異なる。したがって、それは、創造力を求める。しかし、それは、いわゆる芸術作品を鑑賞したり、創作したりすれば、できるようになる、などということはない。教える者もともに遊び、労作に励んでこそ、そこに協和が生まれ、その協和こそが内面に刻み込まれていく。/
そもそも多くの教育論が子どもの個性を言いながら、自説に合うように、空想的で画一的な子ども観を恣意的に採ってはいないか。もちろん、多動とも言えるほどの遊びの衝動を持つ子どももいるが、それとは逆にアパシー(無気力)の子どももいるのが現実だ。後者は、放置すれば、なにも自分では学習も経験もしようとせず、これに無理強いをすれば、ハイジのようにいよいよ心を閉ざして病んでしまう。
それゆえ、ヒュームが実践に情熱が必要であるとしたように、シュピーリやデビットソン、モンテッソーリらは、「情操(emotion)教育」として、優れた芸術や自然に触れる受動感性的な感動体験から、そのリアクションとして、まず子どもの情操を取り戻させるすことを第一段階とし、ここから歌や絵を通じて、徐々に主体性を養うことを試みる。ここにおいて、優れた芸術や自然とは、このように、情操を引き出すもの、ということになる。その情操は、無目的創発的な衝動と違って、特定の芸術や自然に対するリアクションとして、もともと方向性を持っている。
ただし、情操を引き出す芸術や自然は、かならずしも共感しうるような、いわゆる「美」とはかぎらない。歴史の事実からすれば、フィヒテやシラー、シェリンクが考えたような現状に対する不満反発であったり、また、日本の芸道の流行に見られるような世俗的な欲得勘定であったりするかもしれない。それゆえ、引き出された情操にしても、かならずしも美的な創造とはかぎらず、やはり恐怖や憎悪で、破壊に向かう可能性もある。
美徳への探求力
美徳に創造力が必要なのは、その時その場に応じて、状況を良くする個別で具体的なものだからだろう。つまり、美徳は、宗教が考え、修身で教えられるような、一般的で教条的なものではありえない。
ピュタゴラス派はもちろん、シャフツベリ伯、バウムガルテン、アダム=スミスらは、美徳を芸術的な協和に見た。アリストテレスの倫理学や芸術論と同様、初期の仏教や儒教、キリスト教、そしてイスラム教や禅宗なども、祖師や高弟たち言行を範としつつ、その範と、いま直面している困難な現実との協和を具体的に考えた。この現実との協和の模索は、いわゆる音楽や美術ではないが、その時その場の状況を素材とする創造的なパフォーマンスだろう。
したがって、それは、芸術とはいえ、ルソーやモンテッソーリ、デューイやピアジェが考えるような、ただ感性や情操を養うためだけの経験手段ではなく、結果としての善があってこその美徳だ。フレーベルやレッディ、玉川学園の労作は、ただの筋トレの反復のような負荷ではなく、具体的な目前の現実という課題があって、これを解決改善した結果の喜びを伴うものだ。荒廃した貧困国において、また、障害のある人々において、音楽や美術の活動を促すことに大きな意味があるのも、技術の向上以前に、自分にもできるという体験が自信と自尊心を取り戻させるところにある。つまり、芸術、音や物の創造は、対象としての作品の問題ではなく、その作者自身を創るものでもある。
解説
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大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。