/美徳は、時と場によって違い、また、状況とともに変化していき、そもそも当事者の立場によっても異なる。したがって、それは、創造力を求める。しかし、それは、いわゆる芸術作品を鑑賞したり、創作したりすれば、できるようになる、などということはない。教える者もともに遊び、労作に励んでこそ、そこに協和が生まれ、その協和こそが内面に刻み込まれていく。/
科目には「修身」も含まれたが、これはまだ教科書が無く、教員口授とされ、『西国立志編』(スマイルズ『自助論』1859の翻訳、1871)からの偉人譚が多く語られた。しかし、藩閥専制に対して自由民権運動が起こると、天皇侍補(秘書)の儒学者、元田永孚(ながざね)が天皇の名で『教学聖旨』(1879)を欧化を進める伊藤博文(内務卿)政府に提出。これは、幕末の攘夷開国、佐幕尊皇の争いを再燃させ、開明派と国粋派の「徳育論争」を引き起こす。結果、1880年の改正教育令では、修身が初等教育の第一とされた。
参謀本部長の山県有朋は、藩閥開明派ながら、かえってそれゆえに自由民権運動を恐れ、また、ドイツを範として、1882年、天皇統帥権を掲げた「軍人勅諭」を出し、忠節・礼儀・武勇・信義・質素の「五ヶ条」の徳目を挙げた。また、教育においても、1890年の「教育勅語」によって、輸入朱子学の忠孝義勇を強引に皇祖皇宗の遺訓とされ、国家主義色を強めていく。なお、1886年に、教科に唱歌と図画を加えてもよい、とされたが、修身の肥大、教員の未熟のため、実際に実施されたところは少なかった。しかし、府立女学校(東京府立)など、音楽や図画のほか、裁縫や料理、さらには茶道や活花を教えるところもあった。
ダダイズムと芸術の拡大
米文学の暗くミステリアスなエドガー・アラン・ポー(1809~49)を先駆として、1893年、オスカー・ワイルドが背徳的な『サロメ』をフランス語で出し、英語版ではビアズリーが陰鬱なイラストを付けた。また、ウィーンでは、クリムトが退廃的で官能的な絵画が話題となり、フランスのルドンやモロー、ノルウェーのムンクは、幻想的で朦朧とした作品を発表した。『地獄の季節』を書いた詩人ランボーは、本人自身のスキャンダラスな放蕩生活でも知られ、チェコのカフカも、出口の無い悪夢のような『変身』や『審判』で注目される。
また、音楽では、フォーレやサティが、あえて形式や調性が崩れた作風を試みる。これらのデカダンス(衰退)、スノッビズム(貴俗主義)に溢れた作風は、「世紀末芸術」と呼ばれた。くわえて、思想でも、ニーチェやフロイトが人間の文化や心理の影の暗い部分を公然と採り上げ、大きな反発を買った。これらの背景には、産業革命と資本主義の新興成金層が隆盛し、伝統的に確立されていた正統派の芸術や文化を公然と否定し始めたことが挙げられるだろう。
解説
2024.03.29
2024.05.01
2024.06.27
2024.07.25
2024.08.01
2024.08.18
2024.08.26
2024.08.26
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。