/美徳は、時と場によって違い、また、状況とともに変化していき、そもそも当事者の立場によっても異なる。したがって、それは、創造力を求める。しかし、それは、いわゆる芸術作品を鑑賞したり、創作したりすれば、できるようになる、などということはない。教える者もともに遊び、労作に励んでこそ、そこに協和が生まれ、その協和こそが内面に刻み込まれていく。/
しかし、前段のように、たとえ衝動として、また、情操として、芸術的な美徳の意欲を得て課題に取り組んだとしても、これがその時その場と協和して、結果としての善をもたらすとはかぎらない。というより、相応の範と技術、指導がなければ、やってはみたが、かえってぐちゃぐちゃになった、ということにしかならないだろう。それゆえ、バウムガルテンやシェリンクなどは、ここに感性の天才(aesthetix、バウムガルテンの造語)の存在意義を認めている。
とはいえ、本考の冒頭に述べたように、美徳とはほど遠い芸術家は数知れない。ただ、芸術家の役割がバウムガルテンの言うように、イメージ相互の混成、素材と混成イメージ、その混成イメージの表現、の三段階で協和する美徳の着想工夫であるとするなら、着想工夫された協和イメージが豊富・偉大・真実・明晰・直明・生命を持って美的であるとしても、この着想や表現の活動は、じつはかならずしも美徳の実践ではない。それどころか、作品製作として着想や表現の活動を優先すると、それはおうおうに状況や自己の協和を破綻させる。
協和美徳としての道
そもそも、観客の感性を養い、情操を高め、状況と自己とを協和的に良くしようとする美徳に至らしめるのは、かならずしも美徳とはかぎらず、また、美徳である必要もない。ときには、それどころか、おうおうに現状や特定の対象への不満反発もまた、人を美徳へ、環境と自己の創造へと駆り立てるからである。
たしかに優れた芸術、美的協和イメージの着想表現に成功した作品は、その鑑賞によって感性が養われ、情操が高められ、状況と自己を良くしようとする主体的創造の美徳を促すが、このような芸術は、芸術の中でも、かなり限定的である。
だが、本邦において、和歌や茶道はもちろん、歌舞音曲や書画工芸など、芸事一般ににおいて、「道」が言われてきた。それは、恣意的な作為以前に、あるべき姿がすでにあり、これにしかるべく則るとき、そこ美徳が実現する、という発想である。随神(かんながら)にしても、あはれや侘び寂びにしても、バウムガルテン的に着想工夫を凝らして協和イメージをひねり出すまでもなく、そこにそれはあり、いかにそれに寄り添うか、にこそ、芸術の創造性がある、ということだろう。ただし、これは、ピュタゴラス的な永遠固定の調和ではなく、協和(concensus)であって、ともに変化していく時間に動的に則ってこその「道」だ。
解説
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大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。