/美徳は、時と場によって違い、また、状況とともに変化していき、そもそも当事者の立場によっても異なる。したがって、それは、創造力を求める。しかし、それは、いわゆる芸術作品を鑑賞したり、創作したりすれば、できるようになる、などということはない。教える者もともに遊び、労作に励んでこそ、そこに協和が生まれ、その協和こそが内面に刻み込まれていく。/
ルソー研究所の心理学者ピアジェ(1896~1980)は、認知発達段階論を唱えた。乳児の感覚運動、幼児の象徴直観、学童の変化分類、学生の抽象仮設の四段階と、子どもが自己中心から社会中心にシフトする、と考えた。このことから、まず前段階の確立を支援した上で後段階の学習が進められるべきである、とされ、知識複製説の教育を否定し、ペスタロッチ以来の構成主義(学習=認識概念の生成)を理論づけた。ピアジェはまた、カントを踏まえ、道徳心は、外部の権威規範から独立、それどころか反発的であるとし、仲間の互恵や強力によって培われる、とした。そして、彼の追随者たちは、人類の知性もまた、同様の概念構成によってできてきた、と考えた。
大正デモクラシーから戦時色へ
幕商と違って、明治の政商は、鹿鳴館に見られるように、列強との縁故を求め、ニワカ欧風に浸った。このため、茶道は沈滞し、名物も多くが海外に流出した。しかし、日清日露戦争の勝利とともに日本文化の再評価が起こり、近代化で財をなした者、三井物産の益田孝(1848~1938)や東武鉄道の根津嘉一郎(1860~1940)、富岡製糸場の原富太郎(1868~1939)らの「近代数寄者」たちが、国内外に散逸した高級工芸品を買い集め直し、政財界に再び茶の湯を広める。
また、ボストン美術館にいた岡倉天心が米国で『The Book of Tea』(1906)を出版し、茶道を国際的に認知させた。また、裏千家鉄中宗室(1872~1924)は、女学校の「修身」として茶道を普及し、その裾野を拡げた。これは、礼儀作法を学ぶ場であると同時に、江戸時代と同様、新興の政財界人と良縁を得る手段でもあった。
小学校の輸入オルガンの修理から始めたヤマハは、1900年、ピアノを作る。それは、日本の漆を施した真っ黒な鏡面仕上げで、高級工芸品として海外で人気を得る。これは、じつは木目にこだわらずに木材を使うためで、ピアノの大量生産へ道を拓いた。しかし、国内では、ピアノはまだ超高級楽器であり、これを所有できる人、弾きこなせる人は、多くはなかった。
日清日露戦争の後、戦費負担に対する庶民の不満が高まり、また、世界的な労働運動や社会主義の隆盛の影響を受け、あいかわらずの藩閥政府に対して大正デモクラシー運動が起きる。成城中学校は、もともと1885年に文武講習館から発展した陸軍士官学校への予備校だったが、ペスタロッチを信奉するその校長、澤柳政太郎(1865~1927)は、1917年、ここに付属の小学校を創り、個性と自由を重んじる「新教育」を試み、これを世田谷郊外に移して、成城学園として独立。また、21年、東京音楽学校校長、湯本元一(1863~1931)が英国を範とする東京高等学校を中野に、東武鉄道の根津嘉一郎が仏独を範とする武蔵高等学校を創り、地方出の多い野暮な第一高等中学校(公立)に対抗して、成城、東高、武蔵は、国際社会で通用するハイカラエリートを東京帝国大学に送り込んだ。
解説
2024.03.29
2024.05.01
2024.06.27
2024.07.25
2024.08.01
2024.08.18
2024.08.26
2024.08.26
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。