/美徳は、時と場によって違い、また、状況とともに変化していき、そもそも当事者の立場によっても異なる。したがって、それは、創造力を求める。しかし、それは、いわゆる芸術作品を鑑賞したり、創作したりすれば、できるようになる、などということはない。教える者もともに遊び、労作に励んでこそ、そこに協和が生まれ、その協和こそが内面に刻み込まれていく。/
近代日本の芸術と教育
明和の大火、天明の飢饉が起こると、田沼時代で財を成した商家などを襲撃する打ちこわしが全国で頻発する。幕府は、寛政の改革(1787~93)で急旋回し、朱子学的な社会秩序を絶対視するようになり、いよいよ庶民との対立を深め、歌舞伎はもちろん、戯作や浮世絵、さらには蘭学研究まで統制するようになる。
しかし、幕府や大名家が頼った朱子学は、武士に社会の模範となることを教える一方、もとより美徳をもってだれもが天下国家のリーダーとなれる、なるべきである、との思想を含んでおり、これが寺子屋や私塾を通じて商家や庶民にまで広まり、周辺海域に外国船が現われるようになると、武家の間だけでなく、在野知識人たちにおいても、表だって政論を戦わす事態となった。
くわえて、朱子学とともに普及した陽明学は、朱子学と違って、直接行動を重視し、大塩平八郎の乱(1837)のように幕臣の中からも幕府に抗う者が出てきた。それゆえ、幕府は、朱子学の権威、林家の鳥居耀蔵が中心になって、蛮社(洋学同好会)の獄(1839)で、外国文化に親しむ者たちを逮捕処罰するなどしたが、全国で脱藩浪士なども増え、混迷を増すばかりだった。
1840年からの中国のアヘン戦争で、欧米列強の軍事力に対する劣勢は明白であり、攘夷開国にかかわらず、洋学吸収が急務となった。信濃松代の朱子学者、佐久間象山(1811~64)は、平安時代の「和魂漢才」をもじって「和魂洋才」を唱え、江戸の五月塾を開き、勝海舟、吉田松陰らを輩出した。この基調は明治維新の後も続き、武器だけでなく、産業機械、機関車なども輸入し、また、外国人の技術者や学者を招聘し、学校を創って、その欧米へのキャッチアップに努めた。
一方、廃藩置県による士族の窮乏、廃仏毀釈で檀家を失った寺院、金納地租改正で現金を必要とするようになった商家や豪農から大量の工芸品が放出され、値が付かない状態に陥った。しかし、欧米ではジャポニズム人気で高額で売れたので、外貨獲得のためもあって、さかんに輸出されたが、これによって国内でも貴重な文化財さえ失われた。
1872年、近代化で必要となる兵士や工員を養成するために、義務教育を理想とする学制が敷かれ、新規の公設だけでなく、寺子屋からの転換も進められた。ここにおいて、小学校では従来の寺子屋の実務的な読み書き算盤(読方・算術・習字・作文)とともに、「問答」として地歴・博物が加わり、体操や修身が正規教科となった。それゆえ、作文もまた、創作表現ではなく、文法、往来(通信文)、そして漢文風の記述の練習である。
解説
2024.03.29
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2024.08.26
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。