/私が東大にいたころ、イスラム学科ができたばかりで、学生は一人だけ。教授と一対一では気まずい、というので、彼につきあって私と友人の三人で受講したが、当時はまだ、イスラムなど、共産圏よりも遠い話。それが、いまでは生の情報も増え、あのころ習ったのとはずいぶん違うほんとうの姿が見えるようになってきた。/
J まあ、たしかにペルシアに征服されたら、部族も町も潰されて、地位も財産も奪われてしまうけれど、そんな話、みんな信じたんですか?
ユダヤ教やキリスト教でもそうでしたが、社会がひっくり返ることを期待するなんて、虐げられている連中、当時のアラビアで言えば使用人や奴隷くらいですよね。一方、商人や王族は、独立不羈の誇り高きアラブ人として投地平伏するなど論外。それどころか、素性の賎しいやつが貧乏人たちを誑かして町を乗っ取ろうとしている、と疑って、ムスリムを痛めつけます。
J まあ、そうなるでしょうね。
ところが、メッカ市の五〇〇キロほど北にメディナ市というのがありました。ここは、紀元前からの歴史ある商業市ですが、その利権支配を巡って諸部族の争いが絶えません。その彼らが、ムスリムの話を聞きつけ、622年、彼ら七〇人を町に招いて、調停を依頼しました。これを引っ越し、ヒジュラと言い、これがイスラム元年とされます。
J あれ? 町の人々がイスラム教に改宗したのではないのですか?
そもそも、メディナ市の連中の理解だと、ムスリムは、ムハンマドを事実上の族長とする独立の新生部族で、過去のややこしいいきさつが無いぶん、どの部族に対しても中立なはずだ、と考えたのが、彼らに調停を依頼した理由です。一方、ムハンマドは、神は唯一で同一だと素朴に信じていましたから、彼らを改宗させるまでもないと思ったのでしょう。だから、せいぜいわざわざ入信したのは、メッカ市と同様、現状に不満のある使用人や奴隷くらいだったのではないでしょうか。
それより大きな問題は、せっかくムハンマドらが来てみたものの、ただでさえ諸部族がひしめきあっているメディナ市には、増え続けるムスリムを養う余力など、もともとなかった、ということです。そこで、ムハンマドは、勝手知ったるクライシュ族メッカ市の隊商王族のキャラバンを待ち伏せして襲撃し、その財貨を略奪するようになります。
J まあ、いろいろ恨みもあったんでしょうが、同族でしょ。クライシュ族メッカ市の連中は、そうとうに怒ったでしょうね。
そりゃそうです。それで、クライシュ族メッカ市は、周辺諸部族も集め、ムハンマドはもちろん、ムスリムすべてを殲滅しようと、627年、一万の軍勢でメディナ市に攻め込んだ。一方、ムハンマド側は、わずか三千。それも、大半が使用人や奴隷で、ラクダでの戦闘経験など無い。それで、メディナ市の側でも、離反してメッカ市側に着く部族まで出てくる。ところが、ムハンマドは、町のまわりに塹壕を掘ってメッカ軍のラクダの突進をくい止め、白兵戦に持ち込んで圧勝し、裏切ったメディナ市の部族の方を完全惨殺。
歴史
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2021.09.09
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大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。