/私が東大にいたころ、イスラム学科ができたばかりで、学生は一人だけ。教授と一対一では気まずい、というので、彼につきあって私と友人の三人で受講したが、当時はまだ、イスラムなど、共産圏よりも遠い話。それが、いまでは生の情報も増え、あのころ習ったのとはずいぶん違うほんとうの姿が見えるようになってきた。/
J まあ、ゲルマン人だって、アリウス派だ、ローマ・カトリックだ、って、政治都合でけっこうかんたんに宗旨換えしてましたからね。
ところが、東西の大国と関わっているうちに砂漠のアラビア半島にも商業が普及。とくに543年にインド中部をチャールキヤ朝が、581年に中国を隋が統一すると、地中海とインド洋を繋ぐ砂漠横断貿易が拡大。途中のオアシスは、大きな町になっていきます。
J おや、アラブ人にも、ようやく運が回ってきましたか。
とんでもない。利権が生まれば、奪い合いになるだけですよ。アラビア半島南岸のイエメンは、ユダヤ教が主流でしたが、ここがインド洋貿易の最前線になると、西のエチオピアからキュリロス派キリスト教徒が進出。おりしも西の大国、東ローマ帝国が地中海征服戦争で疲弊していたのに乗じ、東の大国、サーサーン朝ペルシアが、このユダヤ教とキリスト教の紛争地域を奪取。さらに、北上して、砂漠横断貿易利権の宝庫、アラビア半島全体の征服に乗り出した。
J まさに漁夫の利を狙ったわけですか。でも、そうなると、アラブ人は?
まずいことに、このころ、経済と都市の発達のせいで、町では、定住している商人、それに仕える使用人、そして、奴隷。一方、その外では、商人の羊を近郊で預かる軽武装の遊牧代行業者、砂漠横断貿易を行うラクダで重武装した隊商王族、と、社会階層が分かれ、部族としての結束が忘れられた。どうするか、話はまとまらないし、まして、みんなで戦おうなんていう気概も無い。それで、もうこの世は終わりだ、と叫ぶ、神がかった預言者があちこちに出てきた。
J ユダヤ教だの、キリスト教だのを聞きかじったことがあったら、こんな絶体絶命の状況は、まさに最後の審判だと思うでしょうね。
みなし子の使用人だったクライシュ族メッカ市のムハンマド(c570~632)は、主人の未亡人と結婚して商人となりましたが、貧富格差の拡大、国際情勢の悪化に危機感を強め、郊外の洞窟で祈りを捧げていたところ、610年、突然に神の声を聞き、親族や周辺の人々に、その言葉を伝え始めます。
その教えは、聞くも恐ろしい最後の審判のお告げであり、神の前では地位も財産も意味をなさず、みな等しくただの人間であって、個人個人の功罪が問われる。だから、その日に備えていますぐ、神の望むような、おたがいに助け合う共同体、ウンマを築かなければならない、というものでした。そして、彼らの信仰は、神に帰依する、イスラムと呼ばれ、その信徒、ムスリムは、神の偉大さを思い知るべく、日に三度、こぞって投地平伏して神に祈りました。
歴史
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2021.08.20
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2021.09.09
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大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。