/私が東大にいたころ、イスラム学科ができたばかりで、学生は一人だけ。教授と一対一では気まずい、というので、彼につきあって私と友人の三人で受講したが、当時はまだ、イスラムなど、共産圏よりも遠い話。それが、いまでは生の情報も増え、あのころ習ったのとはずいぶん違うほんとうの姿が見えるようになってきた。/
ゲルマン人支配下に組み込まれたローマ人政治家たちも、たいへんだったみたいですよ。アテネに留学経験もある学者貴族ボエティウス(480~525)は、テオドリック王の下で西ローマ帝国執政官を務めつつ、哲学や論理学のギリシア語古典のラテン語翻訳でも活躍していました。ところが、524年、突然に陰謀の疑いをかけられて捕らえられ、獄中で『哲学の慰め』を書きました。そこでは、運命と自由の葛藤、理性的信仰という人間のあるべき姿を論じましたが、結局、処刑されてしまいます。
同年代の地方貴族の青年、ベネディクトゥス(c480~547)もまた、勉学のために上京したものの、野蛮なゲルマン王の下でのローマ市のあまりの荒廃に嫌気がさし、529年、遠く離れたカシーノ山に、新しいスタイルの修道院を創ります。
J 修道院? エジプトとかにもありましたよね。どこが新しいんですか?
古いエジプトのキリスト教修道院は、困窮者や流れ者までが住み着き、ときには他国遠征して実力行使でも平気でやるカルト集団でした。また、地中海東岸では、激烈な苦行で自分を痛めつける遍歴修道士たちが現われ、人々の尊敬を集めていました。一方、ローマ市など、各地の大きな街の中にも修道院ができていましたが、これは地方出身の聖職者の寄宿舎のようなものでした。
これらに対して、ベネディクトゥスの修道会は、清貧・貞潔・服従を誓い、「祈り、働け」(オーラ・エト・ラボーラ)を標語とし、強引な行動も無茶な苦行もせず、真っ黒い服を着て、静かな山中に定住して信仰に生きることを第一にします。
J 政治や教会のゴタゴタを嫌って、礼拝と労働に専念する修道生活に憧れるのもわかるような気がします。
でも、こんな隠遁、だれでもできると思いますか。修道士と言っても、苦行をするほどの信心があるわけでもなく、むしろストア派のキケロやセネカと同様、その実体は、世間のゴタゴタを嫌って逃げてきただけの貴族たちで、信仰を口実に世俗的なローマの学術文化を激しく否定する一方で、カネにまかせてローマの書画骨董を買い集めていた、かなりの俗物たちですよ。それも、修道院が広大な領地の寄進を集め、それを大量の奴隷たちに耕作させたから、贅沢や散財はいくらでもできた。
J え、じゃあ、祈り働けというのは?
政治も教会も面倒だというような怠惰な連中が、そんなことを自分でやるわけがない。ただ、この新しい貴族修道院は、カネや財宝が溢れていたから、しばしばゲルマン人たちの襲撃の標的とされ、それで、かれらはヨーロッパ中に散っていかざるをえませんでした。そして、そのせいで、この修道会は中央本部を持たず、各地の修道院の緩い連合体となり、また、その代わり、新たな寄進を集めるべく、それぞれの地元の信者たちの教会との連携を強め、周辺ゲルマン人たちの改宗に努めました。つまり、祈り働けというのは、修道院を豊かにするための布教活動のこと。
歴史
2020.10.30
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2021.08.20
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2021.09.09
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大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。