/私が東大にいたころ、イスラム学科ができたばかりで、学生は一人だけ。教授と一対一では気まずい、というので、彼につきあって私と友人の三人で受講したが、当時はまだ、イスラムなど、共産圏よりも遠い話。それが、いまでは生の情報も増え、あのころ習ったのとはずいぶん違うほんとうの姿が見えるようになってきた。/
こうなると、はっきりしているのが、周辺諸部族。ムスリムというのは、じつはけっこう強くてヤバい新生部族らしい、ということで、手のひらを返して、こんどはムハンマドと族長契約。630年には、逆につるんで、一万の軍勢でクライシュ族メッカ市に攻め込み、略奪しまくった。以来、どこの部族も、すすんでムハンマドに従い、抵抗する裕福で頑迷な周辺都市をつぎつぎと襲撃し、略奪征服。おりしも、サーサーン朝ペルシアでも、28年に皇帝が死んで、内乱となり、アラビア半島進出も中断。この隙に、ムハンマドとその部族連合は、あっという間に、アラビア半島の西半分がムハンマドの支配するところとなります。
10.02.02. 正統カリフたちの苦悩
J で、ムハンマドが王さまになった。
長生きしていたら、彼がいくら拒んでも、きっとそうなっていたでしょうね。ところが、632年、体調を崩し、彼は五十そこそこで亡くなってしまったんです。跡継の男子も無く、部族連合も、あくまでムハンマドとの族長契約だから、ムハンマドが死んだ以上は解散ということに。
J いきなり断絶して崩壊ですか。そりゃ、たいへんだ。
ただ、ムハンマドの預言の記録もあり、彼の言行の記憶も新しかった。それで、ムハンマドの親友だったアブー・バクル(573~位632~34)が、代理人、カリフとして、ムスリムの共同体、ウンマを統率していくことになった。そして、弱体化していた東のサーサーン朝ペルシアに攻め込んで、略奪を続けることで、部族連合も維持。アラビア半島の東半も、支配域にしてしまいます。
J まあ、他の部族は、ムハンマドがいなくても、協力して略奪することに異存は無かったというわけですね。
でも、その彼もわずか二年で亡くなってしまい、634年、彼を支えていた武人ウマル(c592~位634~44)がカリフを継ぎます。彼は、武人らしく戦争がとてもうまく、まず東ローマ帝国のシリアを奪って地中海に達し、東西を分断。ここからペルシアとエジプトの両面展開。もともとペルシア軍にはアラブ人が多く、また、アッシリアやエジプトには、東方教会に弾圧されて追放されたネストリウス派やキュリロス派が残っており、彼らはイスラム軍を解放者として歓迎。こうして、ウマルは、イスラムを一気に中東の大国へと押し上げます。
また、この軍事行動を通じて、彼は、寄せ集めだったアラブ人部族連合を、共同体ウンマの規則に従うイスラム軍に改編し、各地方に新たに建設された軍都に駐留させます。その一方、征服地の人々は、保護民として、これまでどおりの生活を続けさせ、土地税と人頭税を取り立てることにしました。
歴史
2020.10.30
2020.11.18
2021.01.12
2021.03.22
2021.05.25
2021.08.20
2021.08.20
2021.09.09
2021.09.09
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。