/私が東大にいたころ、イスラム学科ができたばかりで、学生は一人だけ。教授と一対一では気まずい、というので、彼につきあって私と友人の三人で受講したが、当時はまだ、イスラムなど、共産圏よりも遠い話。それが、いまでは生の情報も増え、あのころ習ったのとはずいぶん違うほんとうの姿が見えるようになってきた。/
J なんか妙に俗っぽい天国だなぁ。
そして、第六は、権能、カダル。神は全知全能で、世界はそれを創った神のものでありすべての物事がどうなるか、ご存じだ、ということ。神は人間が弱き者であることもご存じなので、どうしようもないことの責任までは問わない。ただ、善も悪も可能であるとき、人がみずから善の方をなす、もしくは、悪の方をなす、ということも、神はあらかじめご存じで、それぞれに楽園や奈落を準備して待っている。それゆえ、人は、帰依として神の期待に応えるべく、みずから善をなす努力、ジハードに励まなければならない、とされます。
J え? なんか頭がくらくらしてきました。世界の中での人間は、どんなふうに考えられているのですか?
世界は、それを創った神のもの。人間も、そうです。だから、人間は、神の前にあっては、取るにたらぬ存在であり、身の程を思い知るべきもの。そして、神の偉大さに比すれば、この世の地位も財産もまったく無意味であり、すべての人間は平等な弱き者として、神の望むように、共同体、ウンマにおいて助け合わなければならない、とされます。この考え方は、以前の誇り高きアラブ人の独立不羈の精神を根本から覆す教えでした。
ここでユダヤ教やキリスト教と決定的に違うのが、〈原罪〉の否定。寛大で慈悲深い神は、アダムとイブが知恵の実をかじったことにネチネチとこだわり続けるような、ちまい方ではない。そうではなく、むしろ神は、人間を信じ、世界を人間に委ねてくれている。だから、人間は、昔の他人の罪のことまで自責の念に捕われる必要はなく、神が委ねてくれたこの世界を、思う存分、楽しんでいい。
J あんな砂漠でも、委ねられれば、うれしいのかなぁ。あぁ、でも、他の国で、ベトベトの燃える水って嫌った石油でも、イスラムの国の人々は、神の贈りものって、すなおに喜んでありがたがったから、あんなに豊かになれたのかも。
ただ、人間は弱き者で、すぐ思い上がるので、先の五つの柱で、日々、身の程を思い出す必要がある。それと、せっかく神が人間に世界を委ねてくれているのに、人間が自分たちで創ったつもりのもの、美術や音楽、酒、賭け事、ブタ肉などにうつつを抜かすと、ただでさえ弱き者なのだから、ろくなことにならない。だから、これらは人間が、神の信頼に応えて、みずから遠ざける必要がある。まあ、これらも建前で、いろいろ言いわけがあって、寛大な神は、あまりちまいことは言わないらしいです。
歴史
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大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。