/当時、私度僧でも功績によって僧官になる道があり、兼好もまた二十代後半で出家して寄進斡旋や和歌名声でこの道をもくろむも、すでに僧籍は寄進貴族の子女に占められており、兼好は形ばかりの仏道に甘んじる無行で開き直る。しかし、四十代後半、倒幕による命の危機を感じるに至って、わずか数年で『徒然草』を書き上げる。/
逸楽のための出家
兼好の小野荘園が、長明の閑居した日野の隣村であったのだから、当然、長明の『方丈記』はよく知っていただろう。しかし、長明の場合、実父を失い、親族に疎んじられただけでなく、安元大火(1177)、福原遷都と源平合戦、養和飢饉、元歴大地震(1180~85)と、散々な時代に二十代を過ごし、その後の人生もまったくうまくいかず、五十になっていよいよ運の無さを思い知り、出家する。とはいえ、「もとより妻子無ければ、捨て難き縁もなし。身に官禄あらず。何につけてか、執を留めむ。」と、そもそも彼は、出家以前から出家も同然の身の上だった。
これに対し、兼好の場合、出家は人の人たるゆえん、とまでされる。「人と生まれたらん印には、いかにもして世を捨れんことこそ、あらまほしけれ。ひとへに貪ることを努めて、菩提に赴かざらんは、よろず畜類にかはる所あるまじや。」(58)と兼好は言う。だが、彼はまた、「山林に入りても餓を扶け、嵐を防く縁無くてはあられぬ業なれば、おのづから世を貪るに似たることも、たよりにふれば、などか無からん。」(58)(衣食住のため、貪るかのようであることも、場合によっては、なぜ無かろうか)と、生活のためのの利潤追求は、許容、というより当然だ、と肯定してしまう。
当然、「背ける甲斐無し」(世を捨てた意味が無い)と批判されるだろうことに対し、「さすがに一度道に入りて世を厭はん人、たとひ望ありとも、勢ある人の貪欲多きに似るべからず。紙の衾(ふすま)、麻の衣(ころも)、一鉢の設け、藜(あかざ)のあつもの、いくばくか人の費(つひえ)をなさん。求むる所は安く、その心、早く足りぬべし。」(58)(出家すれば、欲が減り、安上がりで、すぐ足りる)と反論している。
財の無い長明にせよ、財の有る兼好にせよ、奇妙なことに、どちらも出家ということに積極的で求道的な意味合いは無い。そして、すべてを失って止むをえない長明と違って、とくに兼好はみずからただ逸楽を求めている。その心情は、むしろ自由を求め、支配を嫌って逃散した農民たちに近いのではないか。
実際、兼好は言う、「国のため、君のために、止むことを得ずして為すべきこと多し。その余りの暇、幾ばくならず。」(123)(国家のため、主君のためにどうしてもしなければならないことは多い。だが、その余の暇は、どれほども無い。)「げには、この世を儚なみ、かならず生死を出でんと思はんに、なにの興ありてか、朝夕、君に仕へ、家を顧みる営みのいさましからん。」(58)(この世は儚く、どうせ死ぬのに、なにがおもしろくて、毎日、君に仕え、家を整える気になどなろうか。)
歴史
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大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。