/当時、私度僧でも功績によって僧官になる道があり、兼好もまた二十代後半で出家して寄進斡旋や和歌名声でこの道をもくろむも、すでに僧籍は寄進貴族の子女に占められており、兼好は形ばかりの仏道に甘んじる無行で開き直る。しかし、四十代後半、倒幕による命の危機を感じるに至って、わずか数年で『徒然草』を書き上げる。/
そもそも兼好は既存仏教を嫌っている。『徒然草』の冒頭から「法師ばかり羨ましからぬものはあらじ。……勢ひ猛に罵りたるにつけて、いみじとは見えず、増賀聖の言ひけんやうに、名聞苦しく、仏の御教に違ふらんとぞ覚ゆる。」(1)(増賀:917~1003、良源の弟子で天台僧ながら、奈良多武峰(とうのみね)草庵(談山神社)に居し、『摩訶止観』を講じた。)と、腐す。実際、当時の大寺院の官僧は、僧位買いの俗物貴族子女か、さもなければ、自分の超自然的な密教法力をいまだに自信たっぷりに語るくわせもの。
よほど思うところがあったのか、仁和寺の法師が鼎(かなへ)をかぶって抜けなくなった(53)とか、高野山の証空上人が堀に落ちて、すれちがった女とその馬引に暴言を吐いた(106)とか、遍昭寺の法師がひそかに雁を殺して喰おうとしていた(162)とか、聖海上人が出雲大社の逆さの狛犬を見て感涙に浸ったが、すぐ神官が来て、この子供のいたずらを直した(230)とか、兼好は寺や坊主の実名まで挙げて醜聞笑話をいくつも『徒然草』に載せている。
とはいえ、連中は、法力はともかく、むしろ世俗的な権力がある。彼らに抗っては、寄進斡旋などの自分の商売もままならない。だから、兼好は言う、「世に語り伝ふること…多くはみな虚言なり。……かくはいへど、仏神の奇特…さのみ信ぜざるべきにもあらず。これは、世俗の虚言をねんごろに信じたるも、をこがましく、「世もあらじ」など言ふも詮無ければ、大方はまことしく遇ひて、かたへに信ぜず、また疑ひ嘲るべからず。」(73)(仏神の奇跡など、本気で信じるのもばかげているが、ありえないと言っても仕方ないので、本当のように扱って、信じもせず、疑いもしないのがよかろう。)
長明の時代、『発心集』のように、怪異譚は信心勧奨の根拠となりえた。しかし、その百年後の兼好の時代には、庶民はともかく、上の人々はもはや冷静な合理主義に変わっており、奇譚もやはり笑話になりはててしまっている。たとえば、奥山の法師が夜道で猫又なる化物に襲われたが、じつは主人の帰りを喜んだ飼犬が飛びついただけだった(89)とか、検非違使庁に牛が入り込んで長官の席に座ったの見て、皆が陰陽師を呼ぼうとしたが、長官の父の太政大臣は、牛も足があれば、どこにでも登る、と言って、そのまま牛を持ち主に返した(206)とか、亀山殿の予定地に土着の蛇塚があってどけられないと言うのに、大臣は、皇国の蛇が皇族に逆らうものか、と言って、塚を大井川に流した(207)とか。
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大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。