『徒然草』の執筆背景:脱サラとFIREの先駆者(2)

2021.09.09

ライフ・ソーシャル

『徒然草』の執筆背景:脱サラとFIREの先駆者(2)

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/当時、私度僧でも功績によって僧官になる道があり、兼好もまた二十代後半で出家して寄進斡旋や和歌名声でこの道をもくろむも、すでに僧籍は寄進貴族の子女に占められており、兼好は形ばかりの仏道に甘んじる無行で開き直る。しかし、四十代後半、倒幕による命の危機を感じるに至って、わずか数年で『徒然草』を書き上げる。/

「人間の営みあへる業を見るに、春の日に雪仏を作りて、そのために金銀珠玉の飾りを営み、堂を建てんとするに似たり。その構を待ちて、よく安置してんや。人の命ありと見るほども、下より消ゆること、雪のごとくなるうちに、営み待つこと、はなはだ多し。」(166)は、まさに彼自身の後悔だろう。人生は残り少ない。それどころか、現実の政治情勢の急変は、その残り少ない命さえ脅かしている。

「人はただ、無常の身に迫りぬることを心にひしと掛けて、つかの間も忘るまじきなり。……「昔ありける聖は、人来りて自他の要ことをいふ時、答へて言はく、「今、火急のことありて、すでに朝夕に迫れり」とて、耳を塞ぎて念仏して、つひに往生を遂げけり」と、禅林の十因にはべり。」(49)「刹那覚えずといへども、これを運びてやまざれば、命を終ふる期、たちまちに至る。」(108)「もし人来りて、我が命、明日は必ず失はるべし、と告げ知らせたらんに、今日の暮るる間、何ことをか頼み、何ことをか営まん、我等が生ける今日の日、なんぞその時節に異ならん。」(108)

「病を受けて死門に臨む時、所願一事も成ぜず、言ふかひなくて、年月の懈怠を悔いて、この度、若し立ち直りて命を全くせば、夜を日に継ぎて、このこと、かのこと、怠らず成じてん、と、願ひを起すらめど、やがて重りぬれば、我にもあらず、取り乱して果てぬ。この類ひのみこそあらめ。」(241)「所願を成じて後、暇ありて道に向はんとせば、所願尽くべからず。如幻の生の中に、何ことをか為さん。すべて所願、みな妄想なり。所願心に来たらば、妄心迷乱すと知りて、一ことをも為すべからず。ただちによろずことを放下して道に向ふとき、障り無く、所作無くて、心身永く閑かなり。」(241)

『徒然草』を見るに、急いで出家するように勧めること、そこにかなり切実な思いが伝わってくる。しかし、これが彼自身に向けられた言葉だとすると、ここでいう「出家」は、もはやたんに身分職責を捨て、自由気ままな立場になることではない。むしろ、自由気ままに名家を渡り歩き、和歌で名声を得て、寄進の上前で労無く暮らしてきた彼の二十年こそが、いま、しっぺ返しとなり、四十後半にもなって、人としてなんの実体も無く、それでいて、そのことが悪しき旧体制の象徴的存在のひとりとして標的とされようとしている。

これは心理的なだけの中年の危機だの、杞憂だのではない。六波羅探題別当金沢家に縁がありながら、後醍醐に近い堀川家や二条家に出入りしていれば、間者と疑われても仕方あるまいし、実際、世間話にすぎないにしても情勢を金沢家に通じていただろう。そして、1324年の正中の変では、事前に情報が漏れたせいで、後醍醐はクーデタに失敗しており、彼が政権を取れば、兼好のような間者と疑われる恨めしき連中を処罰処刑するのは当然。兼好が拠った金沢家も、その後、実際に、貞顕、貞将の親子ともども、1333年に鎌倉で一族討死自刃に追いやられている。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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