『徒然草』の執筆背景:脱サラとFIREの先駆者(2)

2021.09.09

ライフ・ソーシャル

『徒然草』の執筆背景:脱サラとFIREの先駆者(2)

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/当時、私度僧でも功績によって僧官になる道があり、兼好もまた二十代後半で出家して寄進斡旋や和歌名声でこの道をもくろむも、すでに僧籍は寄進貴族の子女に占められており、兼好は形ばかりの仏道に甘んじる無行で開き直る。しかし、四十代後半、倒幕による命の危機を感じるに至って、わずか数年で『徒然草』を書き上げる。/

この『摩訶止観』は、講述四言調の簡素な漢文ながら、重層の箇条書きだらけであるために、全体を知った上ででないと部分も理解しがたい。また、五世紀に大流行した中国浄土教の影響を受け、阿弥陀仏の他力信仰も採り入れ、達磨によって伝わって広まり始めたばかりの禅宗の修養法も参考にしている。一方、日本天台宗は、国立戒壇設立の都合で鎮護国家の法力を語る密教「台密」を成し、実践方法論だったはずの『摩訶止観』の一悟円頓も、『大乗起信論』から発展した一元多様の形而上学的な華厳哲学で理論体系論として解釈するようになる。

くわえて、教学修行の階梯を整えたせいで、むしろ智顗本来の一悟円頓を離れ、『摩訶止観』に基づく法華読誦と念仏口唱の懺悔修行が先となり、さらにその後、延暦寺離反僧たちによって念仏口唱が簡略化され、易行として庶民に流行するに至っては、あくまで他力依存よりも罪障滅浄を重視すべく、念仏(阿弥陀仏祈念)を排して光言(大日如来真言)の口唱を普及させようとした。ここにおいて、『摩訶止観』は、天台宗の根本経典のひとつながら、宗内ではもはや脇に追いやられていた。

たしかに『摩訶止観』は、本覚思想を拓く端緒となったものの、『摩訶止観』に基づく兼好は本覚思想だったのか。ただでさえ既存仏教を嫌っていた兼好にあって、このような日本天台宗内の流れも踏まえるなら、彼の無行は、本覚思想とは別のところから由来しているのではないか。また、『摩訶止観』についても、第六章「方便」(巻四上下)以外のところまで体系的に読み込んだようにも思えない。

しかし、『徒然草』の引用を見るに、実物が手元にあったらしい。実際、彼はこれを入手できる可能性があった。幕府があった鎌倉は、天然の要害ながら、七里ヶ浜で港が無く、三浦半島の反対側、金沢六浦港を要した。しかし、この一帯は京都真言宗仁和寺の寺領荘園であったため、北条氏は同荘園の地頭となり、ここに称名寺を建て、同地の支配を手に入れた。この北条金沢家に兼好の亡父が仕えていた。

このころ、南宋(1127~1279)が元に追われたこともあって、蘭渓道隆(1213~78)、無学祖元(1226~来79~86)、一山一寧(1247~来99~1317)が来日し、日本で鎌倉建長寺に住して以後、同寺は多くの亡命僧の受け入れ機関となっていた。また、中国は、元寇(1274, 81)の後、ヴェネツィア商人マルコ・ポーロ(1254~1324)の来訪滞在(1275~92)もあって、シルクロード貿易を回復、1294年、クビライの孫のテムル(ティムール、1265~1307)が即位して、「パクス・モンゴリカ」と呼ばれる繁栄を謳歌していた。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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