/私が東大にいたころ、イスラム学科ができたばかりで、学生は一人だけ。教授と一対一では気まずい、というので、彼につきあって私と友人の三人で受講したが、当時はまだ、イスラムなど、共産圏よりも遠い話。それが、いまでは生の情報も増え、あのころ習ったのとはずいぶん違うほんとうの姿が見えるようになってきた。/
J それ、『薔薇の名前』っていう映画で見ましたよ。
くわえて、教会内部では、修道院の緩い連係にすぎないベネディクト会と違って、ローマ教皇とこれを補佐する元老院のような枢機卿団を中心に、管区大司教、教区司教、司祭、助祭、という、ローマ帝国の皇帝行政と同じ階層構造を形成。
こうして、ローマ・カトリック教会は、ヨーロッパ全土を《ヒエラルキア(神聖管理)》で支配し、教皇無謬説とと知恵の実の原罪説を強調して、一般人ごときはなにも考えるな、ただ教皇と教会に従って黙って働け、と命じました。かくして、ヨーロッパは、抑圧的で陰鬱愚昧な、いわゆる「暗黒時代」を迎えることになってしまうのです。
J そうなるともう哲学も思想もあったもんじゃないですね。
10.02.01. アラビアとムハンマド
キリスト教では、325年のニカイア公会議で、創造神・イエス・聖霊の三位を一体とする立場が正統とされ、異端とされた、創造神とイエスを別とするアリウス派は、その後、ゲルマン人に広まったものの、大教皇グレゴリウス一世以降のローマ・カトリック教会によるゲルマン布教で正統派への改宗が進みます。しかし、東方教会の方は、あいからわず問題を抱えていました。
J 東方教会では、451年のカルケドン公会議で、ローマ大教皇レオ一世の賛同も得て、コンスタンティノープル総主教のイエスの神性と人性の両性一位格の立場が正統とされて、二位格説のアンティオキア市ネストリウス派や、単性説のアレキサンドリア市キュリロス派は異端とされたんですよね。
でも、ローマ・カトリック教会と組んで地中海世界を一時的に再統一した東ローマ皇帝ユスティニアヌス一世でも、異端とされたネストリウス派やキュリロス派を潰すことができなかった。東のネストリウス派は、もっと東のイラク北部のアッシリア、南のキュリロス派は、もっと南のエジプト南部エチオピアへ逃げて、その周辺に勢力を拡大。さらにやっかいなことに、両者の間のアラビア半島には、紀元70年のイェルサレム陥落で離散したユダヤ人もあちこちにいた。
もっとも、アリウス派がゲルマン人に広まったように、宗教は人種を越えて伝わるもので、これらの信者の実体は、いずれも現地のアラブ人です。彼らはみな羊の遊牧民で、砂漠に点在するオアシス周辺の牧草地から牧草地へと部族単位で移動していた。彼らは多神教、というより、なんでもありがたがる雑神教で、西の大国、東ローマ帝国と、東の大国、サーサーン朝ペルシアとを両天秤にかけ、その時々の国際情勢に合わせて、交渉や商売で都合のいい神を選んでいただけ。
歴史
2020.10.30
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2021.08.20
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2021.09.09
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大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。