/歴史から反対者たちを消し去って、マルクス主義者たちは、開祖マルクスの神話を捏造し、コミュニズムの名を奪取しました。 コミュニズムは、もとはただ「庶民第一主義」を意味するだけで、共同体優位や財産共有などは含まず、ましてや階級闘争だの暴力革命だのも関係ありません。そして、それはむしろそもそも哲学の問題でした。/
「ナポレオン三世は、おもしろいやつかもしれない」
青年ヘーゲル主義者たちを抑制するため、ミュンヘン大学の保守派の老シェリング(66)が1841年にベルリン大学に招聘されました。それゆえ、マルクス(24)はケルンに移り、1842年に『ライン新聞」を発刊しました。プロシアの若く裕福な綿織物工場主、エンゲルス(1820-95、22)がマルクスを訪ね、さらにパリに赴いて、彼らは1843年に『ドイツ・フランス年報』を出しました。バクーニンも1844年にパリにやって来て、彼ら(マルクス 26、エンゲルス 24、バクーニン 30)はジョルジュ・サンド(40)やプルードン(35)と知り合いました。
「法律家、パトロン、戦士、そして道化を得て、いまや新しい役者たちが一堂に会した」
23.6. マルクス主義の策謀
ロシア皇帝はバクーニンの市民権を剥奪しましたが、バクーニンはロシア国民に暴力革命で皇帝を倒すように呼びかけました。対照的にプルードンは、無政府互恵主義として人民銀行による穏健な社会経済的改善を提唱しました。マルクスは、フォイエルバッハを参考に『経済学と哲学の草稿』(1844年)を書き、商品としての賃労働は、製品から、自分自身の活動から、人間の普遍的本質から、そして人々の連帯からの四つの疎外を通じて人々を貧しくする元凶だ、と指摘しました。
「どの解決策がよかったの?」
もう一人、忘れてはいけません。ナポレオン三世は、ハム要塞監獄で政治と経済を学び、1844年に「貧困の根絶」という一枚もののパンフレットを執筆しました。その中で彼は、教育と訓練を備えた新しい集団居住地を建設することで貧者たちを救う、と宣言し、「彼らを所有者にしよう!」と言いました。さらに、彼は危篤の父に会おうと、1846年、変装してドラマチックに脱獄しました、新聞は小説仕立てでこの事件を煽り、彼の人気は急上昇しました。
「それは、いわゆる上からの改革だ。彼は庶民の支持を得たいだけだったのかもしれないが、ひょっとするとポピュリズムの天才なのかも」
当時、青年ヘーゲル主義者たちは崩壊寸前でした。彼らはフォイエルバッハの人間の普遍的本質を新たなイデオロギーとして批判しので、彼は現実の人間生活の自然誌にその基盤を移しました。一方、フォイエルバッハのキリスト教解釈学と同様の方法で、彼らはユダヤ教を分析し、ユダヤ教こそが彼らの孤立と迫害を招いた原因である、と結論付けました。ユダヤ人のマルクスとエンゲルスは、フォイエルバッハを参考に、ユダヤ人が置かれた現実生活の自然誌がユダヤ教を創り出したのであって、その逆ではない、と反論しました。これらの論争はマルクスとエンゲルスに新しい考え、生活誌的素材論(マテリアリズム)を与えました。1846年の彼らの『ドイツ・イデオロギー(ドイツ観念論)』によれば、素材的生産関係が社会政治、さらには人々の思考を規定する、とされます。
歴史
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大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。
