/歴史から反対者たちを消し去って、マルクス主義者たちは、開祖マルクスの神話を捏造し、コミュニズムの名を奪取しました。 コミュニズムは、もとはただ「庶民第一主義」を意味するだけで、共同体優位や財産共有などは含まず、ましてや階級闘争だの暴力革命だのも関係ありません。そして、それはむしろそもそも哲学の問題でした。/
「これはキリスト教の罪に対する告発だ」
23.5. 社会改革の新たな担い手
ところで、ナポレオンの弟はナポレオンの継娘と結婚し、その子がルイ・ナポレオン(1808-73)でした。しかし、二人はすぐに離婚し、ナポレオンの死後、ルイは母親とともにスイスに亡命しました。ナポレオンの実子は1830年の七月革命後、皇帝への復位を期待されていましたが、1832年に結核で亡くなりました。このことが若きルイに、ナポレオンと血縁関係がないにもかかわらず、皇帝になるという野心を抱かせました。彼はナポレオン三世(28)と名乗り、1836年にストラスブールからパリへ進攻しようとしましたが、わずか二時間で鎮圧され、米国に追放されました。
「なんともうさんくさいやつ」
大工、仕立屋、パン屋などのヨーロッパの職人には、旅をしながら修行して親方になるという遍歴の伝統がありました。若い修行生たちは、外国の各都市で同胞の相互扶助組織を持っていました。権威主義的なウィーン体制に不満を抱く若者も多く、彼らも海外修行にに出ました。1836年、彼らは敬虔なルター派としてドイツに新エルサレムを建設しようと、職域横断の義人連盟(神と正しい関係にある人々)をパリで組織しました。しかし、彼らは故バブーフのような平等主義が疑われ、フランスから追われ、1840年にロンドンに移りました。
「彼らは活動的な庶民だった」
あいか変わらず政情は不安定でしたが、コレラ流行後のフランスは、ブルジョア階級への優遇政策と産業革命の始まりで活況を呈していました。ジョルジュ・サンド(1804-1876)は、裕福でリベラルな祖母に育てられ、1831年に離婚した後、パリで若いピアニストのショパン(1810-49年頃)など、多くの男性と自由に恋愛しました。彼女は女装してタバコを吸い、女性さえも愛し、男言葉を交えた小説で絶大な人気を得ました。
「ジョルジュ・サンドは新時代のフェミニストで、パリの中心人物だった」
ブルゴーニュの貧しい樽職人の息子、プルードン(1809-65)は、教育を受けられませんでしたが、印刷所の労働者として独学しました。本の校正を通じ、彼はおもだった知識人たちの信頼を得て、1838年に奨学金でパリに行き、1840年に『財産とは何か?』を出版し、財産は強奪である、と言って、ブルジョア階級に宣戦布告しました。
「プルードンは貧者の代弁者だった」
ロシア貴族の息子で近衛兵の将校だったバクーニン(1814-76)は、ドイツ観念論に興味を持ち、1840年にベルリンに行って、青年ヘーゲル主義者たちと交流しました。プロシアの裕福なユダヤ人弁護士の息子、マルクス(1818-83)は、ベルリン大学で法律を学び、青年ヘーゲル主義者に加わりました。同じころ、夢想家ナポレオン三世(32)は、ブローニュに上陸し、再び蜂起を呼びかけましたが、だれも従わず、すぐ投獄されました。
歴史
2023.11.05
2023.11.12
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2024.07.16
2024.10.21
2024.11.19
2025.03.08
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。
