/歴史から反対者たちを消し去って、マルクス主義者たちは、開祖マルクスの神話を捏造し、コミュニズムの名を奪取しました。 コミュニズムは、もとはただ「庶民第一主義」を意味するだけで、共同体優位や財産共有などは含まず、ましてや階級闘争だの暴力革命だのも関係ありません。そして、それはむしろそもそも哲学の問題でした。/
「やはり多様性を失うのは危険だ」
ところが、フランス政府は「政治に口を挟みたければ、まず金持ちになって選挙権を得ろ」と言いました。庶民、学生、農民がブルジョア議会を襲撃し、政府が発砲、1848年の二月革命を引き起こしました。こうして「株屋の王」オルレアンは退陣しました。この運動はオーストリア、プロシアほか、ドイツ諸国にも広がり、国王たちは憲法、議会、報道の自由を求める要求に屈服せざるをえませんでした。
「まさに生産が政治を変えた実例だ。しかし、マルクス主義が革命に影響を与えたの?」
なにも。そもそもマルクスとエンゲルスはロンドンにしか彼らの仲間がいませんでした。彼らは『共産党宣言』を出版しましたが、無視されました。庶民はむしろ、フランスの新共和国政府が始めた道路や鉄道建設などの公共事業に殺到しました。しかし、政府内では保守派とブルジョア社会改革派が対立していました。保守派は選挙で勝利し、採算が取れないとして公共事業を中止し、労働者たちの六月蜂起を再び起しましたが、これはわずか四日で鎮圧され、ブルジョア社会改革派さえも追放されました。
「階級闘争以前に、社会はバラバラだったんだな」
保守派はオルレアン王に代わる顔を必要としており、奇人の夢想家ナポレオン三世(40)の人気にあやかって、彼を傀儡大統領にしました。ナポレオンがフランス語が堪能でないことも、保守派にとって好都合でした。しかし、ナポレオン三世は、彼らよりはるかにうわてでした。彼は、大統領職の四年間を、警察や軍隊の内部に自分の支持者を増やすことに費やしました。もともとナポレオン三世の政策は、亡命ブルジョア社会改革派に近いものでした。こうして、ナポレオン三世(44)は、1852年、クーデタと国民投票で皇帝と認められました。
「新時代のポピュリストとして、ナポレオン三世は人気が最も強力であることを知っていた」
23.8. ナポレオン三世時代
多くの旧時代人は彼を侮蔑しました。ヴィクトル・ユーゴー(1802-85、50)はフランスを離れ、作品を通じて外国からナポレオン三世を小物として執拗に批判しましたが、彼こそ、愛人に手当を渡すたびに領収書と感謝の言葉を求めるような小人物でした。また、ロンドンのマルクス(34)は、ナポレオン三世を金融詐欺師と呼び、彼の支持者たち乞食貧乏人(ルンペンプロレタリア)と非難しましたが、じつはマルクスこそ、資本が自己目的化して無限成長する、などという神がかった理論を妄想し、貧困の中でエンゲルス(32)に寄生していました。
歴史
2023.11.05
2023.11.12
2024.02.23
2024.02.26
2024.07.16
2024.10.21
2024.11.19
2025.03.08
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。
