/歴史から反対者たちを消し去って、マルクス主義者たちは、開祖マルクスの神話を捏造し、コミュニズムの名を奪取しました。 コミュニズムは、もとはただ「庶民第一主義」を意味するだけで、共同体優位や財産共有などは含まず、ましてや階級闘争だの暴力革命だのも関係ありません。そして、それはむしろそもそも哲学の問題でした。/
「彼らは鏡のように、ナポレオン三世の中に自分たちの卑しい庶民の姿を見ていた」
無政府互恵主義のプルードン(43)は以前から独裁者というものを嫌い、新聞でナポレオン三世を繰り返し攻撃しました。彼は起訴され、ブリュッセルに逃げました。しかし、社会改革的なナポレオン三世は、むしろ彼を高く評価しており、恩赦を与えました。が、プルードンは、パリに戻った後も、ナポレオン三世への批判はやめませんでした。
「ナポレオン三世は、プルードンが嫌ったような本物の独裁者だったのか?」
暴力革命家バクーニン(38)は、作曲家ワーグナー(1813-83、39)や画家ハイネ(1827-85、25)とともに、長らくドイツで革命を扇動し、庶民に便乗しようとするマルクスを含むユダヤ人を、ブルジョア階級以上の寄生民族として憎んでいました。彼は逮捕され、死刑を宣告されたものの、ロシアに送還されました。ロシア皇帝は、彼の気概を評価し、シベリア送りに減刑しました。しかし、彼はそこでも米国のようにシベリアを独立させようと企み、日本や米国を経て、1861年にヨーロッパに戻り、各国で革命家を組織しました。
「彼はあまりにも活動的で、彼の革命の野望はあまりに大きすぎた」
ナポレオン三世は権威主義を装っていましたが、偏見も理念もない庶民的なシロウトでした。彼はまず、道路や鉄道の建設など、ブルジョア社会改革派の公共事業を復活し、拡大しました。この国家主導の取り組みは、フランス産業革命を加速させました。さらに、彼が以前に約束したように、すべての人を所有者にするための新しい集団居住地の建設を推進しました。ただし、それは国内ではなく、アフリカ(アルジェリア)、アジア(ベトナム)、ラテンアメリカ(メキシコ)の侵略植民地であり、これを実現するために、彼はフランスが長年対立してきた英国とも協力しました。こうして彼は、ブルジョワも、庶民も、ともに豊かにしたので、すくなくとも当時のフランスでは、プルードンの無政府互恵主義やマルクスとエンゲルのマルクス主義、ましてやバクーニンの暴力革命などには、だれも目もくれませんでした。
「彼は国家の狡猾な政治家というよりは、ドライな会社の経営者みたいだ」
そう、彼はすべてを損得だけで判断する単純な功利主義者でした。しかし功利主義については、後日、お話しましょう。
純丘曜彰(すみおかてるあき)大阪芸術大学教授(哲学)/美術博士(東京藝術大学)、東京大学卒(インター&文学部哲学科)、元ドイツマインツ大学客員教授(メディア学)、元東海大学総合経営学部准教授、元テレビ朝日報道局ブレーン。
歴史
2023.11.05
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2024.10.21
2024.11.19
2025.03.08
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。
