/カントが難解なのは、訳語がひどいから。日本でいえば江戸化政の『解体新書』の時代。それも、彼はドイツではなく、東の辺境、現ロシア領内のプロシア植民北海貿易都市の職人の子で、オランダ語やバルト語(印欧語源に近い)の影響も強く受けていた。それをさまざまな現代の高等専門分野から寄せ集めた訳語で理解しようとしても、よけいこんがらがって、わけがわかるわけがない。/
「「とりあえず」とは、どういう意味?」
これらの面を現象に適用しても、それは私たちの恣意的な操作にすぎず、そうであれば、私たちの述語付けられた経験は、かならずしも正しいとはかぎりません。したがって、カントは、面の適用がつねに正しい、つまり、面の普遍妥当性の証明を必要としました。彼は「事実問題」に対して、それを「権利問題」と呼び、ここで超越論的演繹を展開しました。
「それは、私たちがいつもそうしていると明示するだけでなく、そうするのが正しいと証明することですね?」
カントの解決策は、受容能の普遍妥当性と同じ方法でした。私たちは概括能によってのみ現象を得るので、概括能はどんな現象に対しても普遍的に妥当します。受容能に与えられたものは、じつは、そのときどきの印象の乱雑な流れにすぎません。その一部が保持され、再現され、概括能によって承認されると、それは現象として形成されます。したがって、概括能は生成的洞察(Einbildungskraft)とも呼べます。
「概括能が印象を保持し、再現するの?」
いいえ、概括能は、その承認しかできません。印象が保持され、再現される以上、時間を超える別の機能があるはずです。彼はそれを「統覚(Apperzeption)」、かんたんに言えば、意識と呼びました。彼はそれを、受容能のアプリオリな時間と同じと見なしました。概括能は、時間における印象の累積を量として、強度を質として、順序を関係として、確度を信頼性として読み取り、それを一つの現象として統合します。カントは、図形的かつ論理的で媒介として機能する時間を「図式(Schema)」と呼びました。
「では、意識は受容性と同じ?」
私たちの意識は、外界の認識だけでなく、内面の感情や意志も含みます。そのため、カントは1787年の第二版で統覚論を再考し、新たな視点を切り開きました。しかし、それについては後で話しましょう。
19.6. 認識原則
「で、結局、アプリオリな総合原則ってなに? それが、ニュートンの『プリンキピア」のように、私たちの認識のすべてを支えているんでしょ」
それは、私たちの概括能のアプリオリな面から分析的に導き出されます。まず、すべての現象には体積がある、という「現象の公域」は、量の面から述べられます。公域(Axiom)は、物事のルールではなく、私たちの対象の定義前提です。したがって、それは、時場間で体積を持つものだけを経験ないし現象の対象として受け入れることを意味します。
哲学
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大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。
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