/カントが難解なのは、訳語がひどいから。日本でいえば江戸化政の『解体新書』の時代。それも、彼はドイツではなく、東の辺境、現ロシア領内のプロシア植民北海貿易都市の職人の子で、オランダ語やバルト語(印欧語源に近い)の影響も強く受けていた。それをさまざまな現代の高等専門分野から寄せ集めた訳語で理解しようとしても、よけいこんがらがって、わけがわかるわけがない。/
「またもコペルニクス的転回か? しかし、実践が外界の状況に依存するかぎり、合理性だけで、何をすべきか、議論できるの?」
私たち人間は外界の影響を受け、外界への欲求によって行動するかもしれません。しかし、カントによれば、そのような行動は、たとえ自分や他人をより良くしたとしても「善」とは言えません。実際の結果に関係なく、正しい意志に基づく行動だけが「善」である、と彼は言いました。
「うわ、彼は強引すぎる。それじゃ、また炎上するだろう」
19.9. 倫理義務
このように、カントは議論の領域を意志の問題に限定しました。さらに、彼は、意志にはなにか倫理義務 (moralishes Gesetz) が課せられている、という事実から始めました。義務があるということは、私たちが異なる行動をとることができる、ということです。したがって、倫理義務は私たちに自由を認める理由であり、私たちの自由は倫理義務に従う理由です。
「ここで、原因と必然性に関する仮定推論は私たちの外界では矛盾しないかもしれないと彼が言ったことが役立ちましたね」
私たちの意志がなにかを追求する場合、それは欲望です。同様に、私たちの意志が私たち自身の幸福のために行動する方法を決定する場合、それはせいぜい個人原則 (Maxime) です。これらは仮定意志です。なぜなら、これらは私たちがそれを望んでいるときだけ、またはその方法が幸福をもたらすと信じる人々に対してのみ有効だからです。これに対して、倫理義務は、私たちの希望にかかわらず、私たちの意志に対する絶対命令(kategorisher Imperativ)であるはずです。それがだれにでも、どこでも普遍的に有効である以上、具体的な対象を含んではいないはずです。
「それってなに?」
彼によると、それは、私たちは普遍妥当性を持つように個人原則を設定すべきだ、という命令です。言い換えれば、私たちは自分自身の立法者でなければなりません。それは欲望と個人原則の二つ上のレベルにある規則です。
「それは実際は何のこと?」
この倫理義務は、自分の意志が正しいかどうかを判断するために使用されます。だれもがどこでもそうしても問題ないなら、その意志は、とりあえず受け入れられます。しかし、たとえば、私たちがある約束を破りたくなったら、もしだれかがどこかで約束を破るなら、約束ということは成り立たない、と認識すべきです。私たちは、ここから、約束を守るべきだという規則を導き出せ、倫理義務から、だれもが約束を守る規則をそれぞれ自分の個人原則にするべきである、とわかります。だから、問題の約束も守るべきです。
哲学
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2025.02.17
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。
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