/カントが難解なのは、訳語がひどいから。日本でいえば江戸化政の『解体新書』の時代。それも、彼はドイツではなく、東の辺境、現ロシア領内のプロシア植民北海貿易都市の職人の子で、オランダ語やバルト語(印欧語源に近い)の影響も強く受けていた。それをさまざまな現代の高等専門分野から寄せ集めた訳語で理解しようとしても、よけいこんがらがって、わけがわかるわけがない。/
「なんかうかない顔ですね、先生」
今日の講義はカントについてです。
「なぜ? 彼は有名でしょ?」
しかし、彼は哲学にとって躓きの石です。
「どういうこと?」
彼はあまりに衒学的で、多くが彼の迷宮で哲学を見失います。
「ああ、カントを賞賛するだけで哲学してる気になっている人たちか」
そのくせ、彼らはカントを理解していません。
「でも、カントを避けては通れませんよ。それに、私、迷路は大好き」
19.1. カントのコンプレックス
罠だらけの彼の迷宮に足を踏み入れると、細部にとらわれて全体像を見失ってしまいます。多すぎる専門用語が私たちを当惑させるからです。そもそもカント自身も、自分が作った迷宮の中で道に迷うことが多かった。そこで、まずはカントを外側から考えてみましょう。
「外側から?」
カントの故郷ケーニヒスベルクは、ヨーロッパの東の果て、ドイツ騎士団とその後継者であるプロイセン公国の侵略植民地でした。かつてはバルト海貿易で栄えましたが、カントの時代には宮廷がベルリンに移ってしまい、人口四万人ほどの小さな古い町は優越感と劣等感で満ちていました。
「ちょっと厄介な町だ」
カントは貧しい職人の息子で、ケーニヒスベルク大学をかろうじて卒業したものの、大学の職を得られず、家庭教師として生計を立てなければなりませんでした。
「苦労人なんですね」
当時のイギリスやフランスでは、王立協会やアカデミー・フランセーズが世界中の大量の文化財や先進技術の収集開発の最前線に立ち、産業革命と資本主義が根付きつつありました。
「いわゆる百科全書主義か」
一方、ケーニヒスベルクは七年戦争(1756-63)でロシアに占領され、その後、プロイセンが町を奪還して最前線の軍事要塞に変えた。1770年、カントは46歳でようやく大学の教授になりましたが、週16時間もの授業が課せられました。故郷から出たことがなかったカントは、西ドイツの標準語さえも不慣れで、世界共通のラテン語も、一般的な英語やフランス語もあまり得意でなかったため、デカルトやヒュームの原書さえ読んだことがありませんでした。
「当時の田舎大学はせいぜいそんなものだったでしょうね」
それでも、ニュートンに倣って、彼は哲学の大転換を試み、10年以上かけて主著『純粋理性批判』を執筆して、1781年、57歳のときに出版しました。
「いったい何が書いてあったんだ?」
19.2. カントの野望
彼は経験主義を合理主義で、合理主義を経験主義で否定しました。まずヒュームの剃刀で、イギリスやフランスでの知識収集や技術開発は経験的で不確実であり、学者の仕事ではない、と軽蔑しました。その一方、古代ギリシアや中世スコラ哲学の独断的な形而上学は、人知を超えた妄想であり、学者が関与するのは傲慢である、と批判しました。
哲学
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大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。
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