/カントが難解なのは、訳語がひどいから。日本でいえば江戸化政の『解体新書』の時代。それも、彼はドイツではなく、東の辺境、現ロシア領内のプロシア植民北海貿易都市の職人の子で、オランダ語やバルト語(印欧語源に近い)の影響も強く受けていた。それをさまざまな現代の高等専門分野から寄せ集めた訳語で理解しようとしても、よけいこんがらがって、わけがわかるわけがない。/
「それって、デカルトの延長界のバリエーションですね。逆に言えば、ここでは、感情や意志などの体積のないものは経験対象にはならないことを意味します」
次に、存在するものは強く知覚されるはずだ、という「知覚の期待」が、質の面から導き出されます。しかし、言うまでもなく、空気のように知覚されなくても存在するものがあります。したがって、このルールは、なにが存在するかどうか確かめるときの、せいぜい私たちの側の期待にすぎません。
「印象の強さによって存在を確認するのは、ヒュームの認識論と似ていますね」
カントはこれらを私たちの認識の「数学的原則」と呼び、彼によると、これらは、数学が数学だけでなく自然科学、さらには私たちの認識全般にも有効であることを保証します。
「カントは、虚数や真空さえ、こんなやり方で理解できると考えていたのかなぁ?」
残りの二つはもっとひどい。第三に、カントは関係の面から「経験の類推」を導き出しました。それは、所属・仮説・分離のサブカテゴリによって三つに分けられます。「実体の類推」は、持続するものはなにか実体が属しているはずだ、ということです。「因果の類推」は、BがAに続くが、AはBに続かない場合、Aが原因で、Bが結果であるはずだ、ということです。「相互の類推」とは、同時に存在しているものはたがいに影響しあっているはずだ、ということです。
「わあ、カントはほんとにそんなことを言ったの? 川は同じでも、水は同じじゃない。だれかが雨乞いをした後で雨が降り、雨が降ったときにだれも雨乞いをしていなかったとしても、雨乞いがが雨を呼んだわけじゃない。二のサイコロを振っても、どっちもまったく独立だ。こんなことは、彼より前にも、なんども言われていただろうに」
最後は「経験的思考の公義」です。公域は、検討する対象領域を定義しますが、公義(Postulate)は、ある用語の使用を宣言します。信頼性の面によれば、あるものが私たちの経験の形式に適合しうるなら、私たちはそれを「たぶん」と言い、それが私たちの形式に適合しているなら、「現実に」、私たちの形式に適合せずにはありえないなら、「絶対に」と言います。彼は「経験の類推」と「経験的思考の公義」を「力学的原則」と名付けました。
「それが私たちに合おうと合うまいと、起こることは起こる。彼の用法は、私たちのふつうの意味じゃない」
だから、カントは第二版でここに観念論反駁を追加しなければなりませんでした。彼は、自分の議論が私たちの内なる世界に限定されており、外界には関係がないことを認めました。しかし、デカルトは、両世界が切り離されている、と考えましたが、カントは、現象はなんらかの外部刺激によってのみ起こる、と主張しました。さらに、カントによれば、時間としての意識でさえ、「因果関係の類推」によって、外界の絶え間ない存在に依存しています。
哲学
2024.09.10
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2025.02.01
2025.02.17
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。
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