カントと三批判書

2025.02.01

ライフ・ソーシャル

カントと三批判書

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/カントが難解なのは、訳語がひどいから。日本でいえば江戸化政の『解体新書』の時代。それも、彼はドイツではなく、東の辺境、現ロシア領内のプロシア植民北海貿易都市の職人の子で、オランダ語やバルト語(印欧語源に近い)の影響も強く受けていた。それをさまざまな現代の高等専門分野から寄せ集めた訳語で理解しようとしても、よけいこんがらがって、わけがわかるわけがない。/

「たしかに、統覚は私たちの知性の立法者だろう」

しかし、その後、カントは、美と崇高という特別なアプリオリ概念、ないし、ビジョン(Idee)の分析に多くのページを費やします。彼によると、美は、私たちの認識能力に適合するアプリオリなビジョンであり、その概念が適用されるものが実際に存在するかどうか、したがって、実践的有用性に関係なく、普遍的で必然的な快を私たちに与えます。いわば、美は、それ自体が目的(Zweck (<zwich))、始めで終わりです。一方、崇高は、数学的または力学的に私たちの認識能力を超えるものに対するアプリオリなビジョンです。

「結局、カントは何を主張しようとしているの?」

この二つはたんなる前置きです。カントは、外界は私たちにとって崇高だが、美であるはずだ、と考えました。

「誰にとって? 神?」

たぶん。それが神の摂理です。カントは、ミクロコスモスとマクロコスモス、つまり同じ理性を持つ人間と世界の間の古い類推を想定しました。私たちは、しばしば自然の中で、ある部分がより大きなものに貢献していることに気づきます。それゆえ、因果の究極目的や自然の意志を知ることはできないにもかかわらず、洞察のビジョンによれば、自然全体は知性を備えた巨大な生き物のように思えます。

「なるほど、それが以前の本で言及されていた世界の超越論的ビジョンでしょう」

たしかに、私たちの限られた知性では私たちに自由意志がありますが、私たちの現実の存在は、じつは外界の部分にすぎません。つまり、私たち自身が世界の切り抜き(Urteil)です。私たちの知性の事実としての倫理義務は、私たちに課せられている自然因果です。したがって、外界で倫理義務の実現のためだけに行動するとき、その行動が「善」であり、それが私たちに幸福をもたらすはずだ、とカントは考えました。

「これで、カントの迷宮の全体像がようやくわかりました」

しかし、世界に美への意志があるという考えは、この後、ドイツ観念論と呼ばれる新しい迷宮を生み出しました。でも、今日はここまで。


純丘曜彰(すみおかてるあき)大阪芸術大学教授(哲学)/美術博士(東京藝術大学)、東京大学卒(インター&文学部哲学科)、元ドイツマインツ大学客員教授(メディア学)、元東海大学総合経営学部准教授、元テレビ朝日報道局ブレーン。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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