カントと三批判書

2025.02.01

ライフ・ソーシャル

カントと三批判書

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/カントが難解なのは、訳語がひどいから。日本でいえば江戸化政の『解体新書』の時代。それも、彼はドイツではなく、東の辺境、現ロシア領内のプロシア植民北海貿易都市の職人の子で、オランダ語やバルト語(印欧語源に近い)の影響も強く受けていた。それをさまざまな現代の高等専門分野から寄せ集めた訳語で理解しようとしても、よけいこんがらがって、わけがわかるわけがない。/

「ああ、普遍性によって、他の人々がようやくカント理論に出てきた」

その通り。それで彼は、倫理義務の別のアプリオリなバリエーションを導き出しました。それは、他人を手段として使いたいと思ってはいけない、というものです。なぜなら、たとえだれかが他人を自分の手段として使いたいと思っても、だれもその人の個人原則を支持しないからです。したがって、三番目のバリエーションは、私たちは社会の立法員であることを自覚すべきだ、ということです。

「でも、ときおり「朕は国家なり」なんていう人が出てきて、みんなも、なんの疑問もなく、彼に従ったりします。カントは当時まだナポレオンを知りませんでした」


19.10. 実践理性の要請

概括能は、認識では私たちの経験を確認し、実践では意志を構築します。私たちは、ある状況にあると認識すると、まだ無いものを対象に設定し、それを得る方法を考えます。このようにして、私たちはなんらかの行動をとる意志を抱きます。その意志は、とくに「良い」ものではなく、逆に「悪い」ものであっても、普遍立法として問題がなければ、とりあえずはかまいません。

「ええ、仕事が終わったら、バーに行って、スポーツくじを買って、遅くまでビールを飲む。たとえそれが時間のムダでも、たとえくじに当たらなくても、それどころか、たとえ体に悪くても、それが私たちの自由でしょ」

しかし、私たちは同時にそんな生活を虚しく感じます。そのため、私たちの推理能は、実践的に、弁証法を通じて、生きるためのより高い価値を求めます。私たちが求める究極の対象は、幸福かもしれませんが、それは外界の問題であり、それが得られるかどうか、得られたとしてもそれがどれくらい続くか、不確実です。だから、幸福を求めて努力しても、その努力も虚しい。

「カントは悲観的ですね」

逆に、たとえ運良く一時的な富や名声を得たとしても、それは私たちのほんとうの幸福でしょうか? カントは、究極の「善」は、外界の善、つまり最終の幸福だけでなく、私たち自身の善、つまり最初の徳も含むべきだ、と言いました。

「たしかに、悪を行って富や名声を得ることは、究極の善とは言えませんね。でも、カントの言う徳ってなに?」

それは、自分自身の幸福をけして求めず、倫理義務のみを追う意志です。

「義務に従うのは、人としての最低条件にすぎないでしょ。それに、意志だけでは、その人は実際にはまだ何もしていないのでは?」

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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