ドイツ観念論:フィヒテ・シュライアーマッハー・シェリング・ヘーゲル

2025.02.17

ライフ・ソーシャル

ドイツ観念論:フィヒテ・シュライアーマッハー・シェリング・ヘーゲル

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/ドイツ観念論は画期的だったが、今ではほとんど読まれない。というのも、それは哲学的神学であり、それらの本は冗長で抽象的で、何のことか、わからないからだ。ドイツ観念論はフランス革命のさなかに現れたもので、それらの本を理解するには歴史背景を知る必要がある。/

「で、今日はドイツ観念論ですね?」

ええ、それは画期的でしたが、今ではほとんど読まれません。

「どうして?」

それは哲学的神学でした。それらの本は冗長で抽象的で、何のことか、わからないからです。

「じゃあ、当時の人々はどうしてそれらが読めたの?」

ドイツ観念論はフランス革命のさなかに現れたもので、それらの本を理解するには歴史背景を知る必要があります。


21.1. 啓示問題

まず、カント(1724-1804)をおさらいしましょう。彼の最初の本『純粋理性批判』(1781)は、数学や自然科学さえも主観性に基づかせようとする時代錯誤の極端なデカルト主義の試みであり、話になりません。しかし、彼の二つめの本『実践理性批判』(1788年)は、私たち自身や世界をなんとでもできる自由を示し、陳腐な政治に苦しむドイツの下層の若者たちに革命的熱狂を呼び起こしました。さらに、彼の三つめの本『判断力批判』(1790年)は、革命が自然の必然であると主張しました。

「えっ、カントがそんなことを言った? 彼の道徳義務はどこへ行った?」

世間は原文も読まずに評判だけで興奮するものです。カント崇拝者のフィヒテ(1762-1814)は、ザクセンの農民の子で、貧しい家庭教師で、急進的な革命家であり、さらに悪いことに、典型的な下層ドイツ人として頑迷な反ユダヤ主義者でした。彼(29)は、1791年、ヨーロッパの東の果て、ケーニヒスベルクのカント(67)をわざわざ訪ね、金を借りようとしました。カントは彼になにも与えず、出版社を紹介し、彼の宗教に関する本が1792年に出版されました。出版社の策略により、その本には著者名がなく、カントのものと間違えられて、ベストセラーになりました。それがフィヒテのものとわかると、彼はたちまち有名になりました。

「そんなにすごい本だったの?」

いえ、それはさまざまな文化や宗教における啓示を単純に検討し、すべての啓示はそれぞれの社会の既存の道徳に従っているだけだ、と指摘した本でした。しかし、啓示は当時の知識人の間で中心的な問題でした。フランスではカトリック教会が政治に深く関与していたため、革命はそれを拒絶し、廃止したからです。これに代えて、革命政府は人間の理性を崇拝する奇妙な新しい宗教を作りました。それは全国的でしたが、およそ理性的ではないバカ騒ぎでした。

「なぜそれが哲学的な問題に?」

理性的な人間に啓示は必要ない、むしろ啓示は抑圧の手段だ、とされたからです。しかし、ドイツ人の多くはプロテスタントだったので、革命を支持しても、イエスの啓示であるキリスト教を拒否することにはためらいがありました。カントは1793年に宗教に関する自分自身の本を出版しました。彼は、革命こそがキリスト教であり、法的な自然状態の打破がイエスが啓示した道徳共同体への道である、と考えました。当然、この本は危険思想として禁止されました。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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