/ドイツ観念論は画期的だったが、今ではほとんど読まれない。というのも、それは哲学的神学であり、それらの本は冗長で抽象的で、何のことか、わからないからだ。ドイツ観念論はフランス革命のさなかに現れたもので、それらの本を理解するには歴史背景を知る必要がある。/
「それが世界精神の現象化?」
そう、彼は、純粋意識が多重弁証法を通じて全知の神にまで発展する、と考えていました。その発展は、意識、精神、理性の三段階がある、と彼は言います。しかし、この本は余談だらけで、構成もひどい。いずれにせよ、最初は、今、ここ、このように、という主観的な感覚です。それは、さまざまな客体に遭遇し、理解へと満たされます。しかし、理解は私の自我にすぎず、他者を知ることで、私たち、つまり精神になります。それは、最初は私たちの実際の習慣にすぎませんが、学ぶべき文化に変換され、さらに、従うべき道徳になります。我々の自然な信条はさまざまな芸術として表現され、啓示された宗教として取り戻されます。さらに、ここに至るまでの展開を振り返ると、それは、絶対理性、神になります。
「ようするに、彼は自分の哲学こそが神の見解そのものだと言っているのかな?」
そうかもしれませんね。しかし、イエナ大学は閉鎖され、ヘーゲルはやむなくニュルンベルクの高校の校長となって、研究を続けました。一方、ベルリンのフィヒテはフランスの圧政の実態を見て、ナポレオンへの共感を失い、1808年に『ドイツ国民への演説』を出版しました。
「ついに二つの気球が衝突した」
当時のドイツは、オーストリア、プロシア、バイエルンのほかは、分割相続、宗教戦争、独立都市などにより小国が入り乱れていました。にもかかわらず、反ユダヤ主義者のフィヒテは、ドイツ国民に対して、自分たちこそ独自の伝統と文化を持つ真の選民であり、今こそ個人の利己主義を克服すべきだ、と訴え、過去が期待し、未来が称賛する主導的国家として、自発的に自由を放棄する意志のための教育改革に求めました。その後、彼は実際に新設のベルリン大学の学長に任命されました。
「わあ、その精神はナチズムそのものだった!」
21.5. 世界の論理
1812年にナポレオンのロシア侵攻が失敗すると、フランスに対する反撃が一斉に始まりました。フィヒテは1812年に病死し、シュライアーマッハーはベルリン大学の神学教授となり、ミュンヘンのシェリングはバイエルン王と親交を深め、存在の形而上学、存在論に魅了されました。ヘーゲルはニュルンベルクで高校生に哲学を教えながら、弁証法的論理による存在論も研究しました。
「彼らは政治に疲れたのかな?」
それでも、ヘーゲルの『論理学』(1812-16)は1000ページを超える大著でした。それは、存在、本質から活動への生成過程、つまり絶対知の観点からの世界創造の振り返りを説明しています。単純な存在は、質としての無です。存在と無の相互決定が生成です。したがって、生成されたものが現実として現れます。しかし、質は連続性であり、外部に対する終わりは量としての大きさを定義します。量としての質は程度です。程度は変わる可能性がありますが、その場合、根本に変わらないもの、本質があります。
哲学
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大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。
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