ドイツ観念論:フィヒテ・シュライアーマッハー・シェリング・ヘーゲル

2025.02.17

ライフ・ソーシャル

ドイツ観念論:フィヒテ・シュライアーマッハー・シェリング・ヘーゲル

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/ドイツ観念論は画期的だったが、今ではほとんど読まれない。というのも、それは哲学的神学であり、それらの本は冗長で抽象的で、何のことか、わからないからだ。ドイツ観念論はフランス革命のさなかに現れたもので、それらの本を理解するには歴史背景を知る必要がある。/

「それはホッブスとアウグスティヌスのごたまぜだ。でも、キリスト教が政府を転覆することだと言うのは、あまりにムリがある」


21.2. 活動としての自我

田舎にいた老カントは、おそらく当時の恐ろしい現実を知らなかったでしょう。フランスの革命派はたがいに殺し合い、近隣諸国と戦争を始めました。それでも、若いフィヒテはあいかわらず政府、教会、ユダヤ人に反対する急進的な革命家でした。彼はフリーメーソンに入会し、ザクセンの自由主義的なイエナ大学の員外教授の職を得て、1794年から95年にかけて『知識学』を出版しました。

「彼はこの本で革命を扇動したのですか?」

いいえ、彼はまだ自分の本当の信条を隠していました。この本は、カントの統覚を空虚な知性器官ではなく、積極的な活動である自我として論じただけです。自我とは、自分自身や他のものを存在させる活動、「事行」です。ここから彼は私たちの知性とその実践を発生学的に説明しました。

「発生学的に?」

いわば、理性の起源の神話です。彼によれば、目覚めると、そこに自我(Ich)があり、それは同一性の法則に基づいて存在しています。しかし、どこかに何かがあり、それが自我ではないなら、それは非我(Nicht-Ich)です。自我がそれに気づくと、自我は自分の中にそれのための余地を開けなければなりません。自我が非我に対して受動的なら、自我の活動は認知的ですが、自我は、実践的には本来の絶対性を取り戻すまで、非我を克服しなければなりません。なぜなら、それが自我の存在理由だからです。

「それは、すべてを自分の思い通りにしようとする、まさにエゴイズムだ。でも、それって何の話なの?」

カントはフィヒテの政治的意図を理解しておらず、それを中身のない自己思索として批判しただけでした。しかし、じつはフィヒテはそれ以前にも匿名で革命的なパンフレットを出版していました。彼は、ルソーの社会契約論に基づき、革命は我々ならざるものから独立する人々の自然権である、と主張していました。つまり、彼の本はあえて曖昧でしたが、自我の永続実現は、我々ならざるもの、すなわち、政府、教会、ユダヤ人の殲滅を提唱するものでした。

「彼は本当に危険人物だった」

当局は以前からフィヒテを疑っていましたが、決定的な証拠がありませんでした。彼は教会を無視して日曜の朝に講義をしましたが、若者たちに有名で人気がありました。当時、ナポレオンを得たフランスは、カントがフィヒテを批判したように、自由、平等、友愛という内容なしに、量だけが膨れ上がりました。ナポレオンの帝国はドイツ諸国を脅かし始めましたが、それでも、フィヒテを哲学のナポレオンと称賛する者もいました。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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