/ドイツ観念論は画期的だったが、今ではほとんど読まれない。というのも、それは哲学的神学であり、それらの本は冗長で抽象的で、何のことか、わからないからだ。ドイツ観念論はフランス革命のさなかに現れたもので、それらの本を理解するには歴史背景を知る必要がある。/
「両方の風船はすぐに破裂するだろう」
21.3. 無神論論争
私たちの理性的な道徳こそが神であり、そのほかにはなにも必要ない、そうフィヒテが1798年にエッセイに書いたとき、彼は無神論者だ、という非難が起こり、保守派はフィヒテの追放を要求しました。ベルリンのプロテスタント病院の牧師であったシュライアーマッハー(1768-1834, 31)は、フィヒテの思想は人間の危険な傲慢さだとして、革命的合理主義者に対する神学論『宗教論』を1799年に執筆しました。
「合理的エゴイズムと啓示宗教はあいいれないでしょうね」
シュライアーマッハーは、宗教は合理主義にも道徳主義にも還元できない、と言いました。それは宇宙の直感と感覚です。彼によると、表現は背景に存在するものの結果にすぎないため、解釈学を通じて表現以前の原型を読み取らなければなりません。私たちが出会う個々の事物も宇宙の断片的な表現にすぎないので、我々は直感と感覚を通じて宇宙全体を知るべきであり、なにより私たち一人一人の向こうに偉大な人間性があることに気づくべきです。しかし、合理主義は世界を死んだ物質にし、カトリックは我々の自発性を潰します。宇宙をどこから読み解くかによっていろいろな宗教がありますが、イエスの啓示を通じたキリスト教は、あいかわらず大きな可能性を秘めています。
「これは典型的なプロテスタント牧師の考え方だ」
結局、フィヒテ(37)はイエナ大学を去り、代わりに神学を学んだ若きシェリング(1775-1584、24)が哲学教授に昇進しました。彼はフィヒテの自我の量的拡大を自然ないし世界の質的成熟に変換しました。世界は物質としての量を維持しながら、質として内なる意識を歴史的に洗練させていきます。客観的な物質と主観的な精神は、単に勢力が異なるだけで、実際はどちらも同じ世界の一部です。そのため、彼の初期の思想は「同一哲学」と呼ばれました。
「それはスピノザの汎神論に似ていた」
しかし、シェリングは、現代の合理科学が世界を死んだ物質と虚ろな精神の二つの極に分断し、両者を対立させていっていることを懸念していました。これに対し、芸術は物質的かつ精神的であり、象徴として個別的でありながら普遍的です。芸術を通して、私たちは自然精神である世界全体への洞察を得ることができます。それゆえ、シェリングは宗教ではなく天才芸術家に分断された世界の再統合を期待しました。
哲学
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大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。
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