カントと三批判書

2025.02.01

ライフ・ソーシャル

カントと三批判書

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/カントが難解なのは、訳語がひどいから。日本でいえば江戸化政の『解体新書』の時代。それも、彼はドイツではなく、東の辺境、現ロシア領内のプロシア植民北海貿易都市の職人の子で、オランダ語やバルト語(印欧語源に近い)の影響も強く受けていた。それをさまざまな現代の高等専門分野から寄せ集めた訳語で理解しようとしても、よけいこんがらがって、わけがわかるわけがない。/

「窓のない部屋に閉じ込められた人は、時間の感覚を失う、と私も聞いたことがあります」


19.7. 超越論的ビジョン

アプリオリ論理に従って、私たちは経験を得ます。私たちは、経験から新しい情報を推論する、より高度な知性、つまり、推理能もあります。推理能の推論は、じつは関係の面を経験に適用したものであり、基体推論、仮定推論、選択推論、の三つに分けられます。

「概括能と推理能の違いは、対象が現象か経験かという点だけ?」

概括能が経験的に与えられた印象や現象を受動的に統合するのに対し、推理能は高次の帰納的知識を積極的に探索します。しかし、弁証法によって無限に高次の知識を求めると、むしろ新しい超越論的ビジョン(Idee)を創ってしまいます。ただし、カントがニュートンやライプニッツの微積分を理解していなかったから、彼の議論は混乱しています。

「ああ、カントはアリストテレスの無限推論を問いただした」

まず、帰属推論を無限適用すると、私たちの意識は、あらゆる経験に属する究極の基体である、ということになります。そのため、意識は魂として現実的に存在する、と考えがちです。しかし、前述のように、私たちの意識は、じつは単なる空の時間にすぎません。魂は超越論的ビジョンです。彼はこの誤った推論を「超越論的パラロギズム」、つまり過剰議論と呼びました。

「意識は真空のようなものです。何でも含みうるのに、何ものでもありません」

次が、仮定推論で、カントは再び同じ混乱に陥ります。アプリオリの面を無限に適用すると、二つの相互矛盾する結論、つまりアンチノミーに至ります。量の面では、無限に大きいものを求めると、無限体積に達しますが、そのとき、さらに大きい体積がある、とも、さらに大きいものはない、とも言えません。同様に、質の面では、無限強度よりもさらに強いものがあるかどうか、わかりません。

「これらはゼノンのアキレスと亀のパラドックスのバリエーションだ。カントは無限積分の解き方を知らなかった」

関係と信頼性の面では、究極の原因や必然性を推論しますが、同時にさらに究極の原因と必然性を求めることができるため、これらの結論は矛盾しています。しかし、カントは、これらは限られた知性の範囲内での結論に過ぎず、外界でどちらが正しいのかを知ることはできない、と考えました。推論で得られる世界のイメージは、せいぜい超越論的ビジョンです。

「私たちが世界をどう考えようと、世界は何にでもなりうる」

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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