/渦中の権勢の栄枯盛衰を横目に眺め、これをむなしい「無常」と断ずる。ところが、その言葉は、まさに渦中の権勢そのものに向けて発せられ、それにマウンティングすることで、かえって自身を渦中の上に位置づけようとする試みになっている。兼好が筆を折り、世阿弥や利休が時の権力者から嫌われていくのも、この巧妙なマウンティングの企図が権力者側から読み解かれてしまったからだろう。/
方丈記と平家物語:平安末期から鎌倉時代初期へ
この時代、白河院のみならず、その実子とウワサされた平清盛、崇徳上皇もまた、疎ましき余計者だった。そして、その疎まれ者の典型が、鴨長明(1155~1216)。とはいえ、西行(1118~90)、平清盛(1118~81)、崇徳(1119~64)らに比すると、二世代近くも遅れる。そして、下鴨神社祢宜の子ながら、父が没して継ぐべき職を親族の祐兼に奪われて後、和歌や琵琶の数寄の道で名を成す。
「見渡せば花も紅葉も無かりけり 浦の苫屋の秋の夕暮れ」(363)の歌に象徴されるように、父、藤原俊成の幽玄有心をさらに技巧的にした余剰妖艶の体を、気鋭の藤原定家(1162~1241)が確立し、これに沿って勅撰で『新古今集』(1210)をまとめていた。このために、和歌の世界でも、長明は、早くも過去の人となりつつあった。それでも、長明は、見えぬものをも心に見る、その新たな歌風を体得し、「夜もすがらひとり深山の槙の葉に 曇もるも澄める有明の月」(1523)が『新古今』に採り上げられている。
涙に曇るとも、空が曇るとも取れるが、どのみち澄んだ残り月は、心にある。これは1201年の和歌所寄人に任じられた撰歌合(八月十五日で、ほんとうはむしろ満月)のときの作なので、このころはまだ和歌なり、祢宜なりでの仕官の希望を捨てていなかった。だから、夜明けまで深山でひとり過ごし、澄んだ残り月を抱いている、というのもまた、象徴的に自分の無為の身上と無垢の志しを表したものだろう。
しかし、この後、彼の和歌を好む後鳥羽院のさまざまなとりなしにも関わらず、またも親族、祐兼の妨害で道を断たれ、五十歳、1205年に、伏見の日野山中に出家閑居。その前に下鴨を訪れて、「見ればまづ いとど涙ぞ もろかづら いかに契りて かけ離れけん」(『新古今』1778)と嘆く。諸葛は賀茂祭の髪飾り。脆く漏れる、を掛けている。(が、これは新古今的な様式ではない。)
むしろ後に京極派勅撰の『玉葉和歌集』に採られることになる「あれば厭ふ、背けば慕ふ、数ならぬ 身と心との仲ぞゆかしき」(2518)は、俗世にも、出家にも、自分の居場所を見つけられない疎まれ者の、文字どおりの「心境」を表している。ここにはもはや目や心を向けるべき景色も風情さえも無く、みずからもただ持てあますばかりの生の空虚な自意識のみがのたうちまわっており、まさに京極派の心理志向を先取りするものとなっている。
歴史
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2023.07.27
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。