無常を追う日本的無常観

2022.07.21

ライフ・ソーシャル

無常を追う日本的無常観

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/渦中の権勢の栄枯盛衰を横目に眺め、これをむなしい「無常」と断ずる。ところが、その言葉は、まさに渦中の権勢そのものに向けて発せられ、それにマウンティングすることで、かえって自身を渦中の上に位置づけようとする試みになっている。兼好が筆を折り、世阿弥や利休が時の権力者から嫌われていくのも、この巧妙なマウンティングの企図が権力者側から読み解かれてしまったからだろう。/

だが、そんな歴史や世界に対して、出自で身分が決まる社会制度の下、庶民には参与の余地は無かった。禁教令に始まって、寺檀制度と宗門人別で信仰も固定された。家政市中を富ませるようなお上への献策は、窓口が開かれていないわけではなかったが、そのためのしかるべき手順を踏むのは容易ではなかった。まして、手順抜きの直訴、強訴など、論外。儒教の「由らしむべし、知らしむべからず」こそが施政の大原則であり、徳川家康(『落穂集』)だか本田正信(『江戸雑録』)だかの言葉として知られるように、「生かさず、殺さず」で、最低の生活を保証はするものの、絶対に増長はさせない、ことが肝要とされ、庶民もまた、この立場に甘んじた。

すべては通り過ぎていく。時代は下って幕末維新の話ながら、吉田松陰(1830~59)と同世代、『夜明け前』の青山半蔵(藤村の父、島崎正村(1831~86)を実在のモデルとする)の心情は、ある意味、江戸時代の多くの庶民にも共通するものだっただろう。しかるに、彼は、この流れに参与せんとして国学を学び上京仕官するも、欧化の気風に合わずに疎まれて弾き出され、帰郷して座敷牢で狂った廃人となって死ぬ。

早すぎた万能の天才、平賀源内(1728~80)も、老中田沼意次に認められながら、生まれの高松藩を脱したことが逆恨みされて奉公構(禁雇回状)を喰らい、酔って刃傷沙汰に及び、獄中で死去。友人、杉田玄白は彼を追悼して墓碑に「嗟非常人、好非常事、行是非常、何死非常」と記し、常人ならぬ人はなぜ死に方まで尋常ではないのか、と嘆く。また、世界を知る蘭学者、渡辺崋山(1793~1841)は、三河田原家年寄だったが、1837年、幕府が米国商船モリソン号を砲撃したことを批判。これに対し、幕府は、39年、「蛮社(蘭学連中)の獄」で牢に入れ、41年、彼を自害に追い込む。

彼らは激流に手を出し、破滅した。庶民の知恵としては、激流を知り、そこに思うところがあっても、けして口を挟まず、ただ黙って傍観することだろう。浄瑠璃や歌舞伎では、『菅原伝授手習鑑』(1746)、『義経千本桜』(1747)、『仮名手本忠臣蔵』(1748)が長丁場ながら当たり狂言となる。ここにおいて観客は、主君の子の身代わりにした我が子の首を前に「せまじきものは宮仕え」と嘆くのを聞き、お上連中の無常悲哀を感じ、翻って、幸いにもその無常の外に追いやられている自分たちの平安無事を再確認する。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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