/渦中の権勢の栄枯盛衰を横目に眺め、これをむなしい「無常」と断ずる。ところが、その言葉は、まさに渦中の権勢そのものに向けて発せられ、それにマウンティングすることで、かえって自身を渦中の上に位置づけようとする試みになっている。兼好が筆を折り、世阿弥や利休が時の権力者から嫌われていくのも、この巧妙なマウンティングの企図が権力者側から読み解かれてしまったからだろう。/
はじめに
たんに日本的無常観ということなら、評論大家の小林秀雄『無常という事』(1946)、唐木順三『中世の文学』(1954)や『無常』(1964)などにおいて、すでに多く語られている。それを改めて取り上げるのは、その後、解釈学の劇的進展や史実の実証的解明によって、その理解に疑念が生じているからである。
かつては数奇な世捨て人として盛り付けられた伝説がそのまま信じられていた西行や長明、兼好、そして世阿弥、利休、芭蕉などの生涯とその時代背景についても、周辺史料や文章以外の史実の掘り起こしによって、実証的に大きく書き直しが進んできた。このことによって、実際、彼らが書き残した文章と実情との齟齬が露呈してきた。
従来、彼らは、みずから俗世を離れ、遠くから淡々と無常観を語っている、と思われていた。ところが、彼らの実情は、数奇な世捨て人どころか、巷間のただ中にあって世捨て人を装う珍妙な俗物だった。それは、彼らの文章以前に、彼らが僧形を取り、仏道を語りながら、みずからは仏門修行そのものに励むこと無かったことにすでに象徴的に表れている。
しかし、このことは、彼らの無常観までウソだった、ということではあるまい。もし仏道に徹して真に俗世を棄てることができたなら、無常を感じる必要も無かったのではないか。むしろ彼らは、末法として混沌を深めていく俗世にあえて半身を浸し、そこに無常を感じることでしか心の平静を得ることができなかったのではないか。
この奇妙な有りよう、矛盾倒錯した実存形態は、古代中世においては、歴史と世界を俯瞰できる限られた特権的人々のものだった。しかし、近世以降は、視野を歴史と世界に拡げながらも、実質的には何の参与権も与えられないままに時代に翻弄されるだけの庶民にも共有されていく。それこそが、政治に無関心とされる日本人の心の保ち方、無常観なのではないか。
厭世的無常観の芽生え:奈良時代
最初はたんに大国の隋などとの外交のために、日本もまた土俗の蛮夷ではなく国際的な標準信仰を持つ文明国の体裁を取り繕うことが目的だった。それゆえ、推古朝の遣隋使に続いて、中国の代替わりの後、遣唐使を派遣し、国際文化の吸収に努めている。記紀の国史編纂や律令制、平城京、そして仏教もまた、この国際標準化の延長線上にあるにすぎない。
日本は名目上は天皇を中心とはするものの、それを成し遂げる大化の改新で功績のあった藤原家がその後の政治の実権を握ったため、これを厭う聖武天皇や、その娘、孝謙天皇(復位重祚して称徳天皇)は、藤原家と対抗すべく、玄昉や道鏡のような世評悪しき仏僧を頼って、壮大な大仏や壮麗な寺院を作り、寺院勢力を政治の中枢にまで招き入れてしまった。このため、平城京の奈良朝廷において、寺院勢力はいよいよ肥大し、藤原家支配と変わらず、やはり政治は硬直専横化していってしまう。しかし、孝謙称徳天皇に子が無く、皇統が天智天皇系の光仁天皇へ戻り、その子、桓武天皇は、寺院勢力を排除すべく、平安京への遷都を図る。しかし、これもまた、結局、藤原家の外戚支配を復興させることになってしまった。
歴史
2022.01.21
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2022.10.27
2023.06.06
2023.07.27
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。