/渦中の権勢の栄枯盛衰を横目に眺め、これをむなしい「無常」と断ずる。ところが、その言葉は、まさに渦中の権勢そのものに向けて発せられ、それにマウンティングすることで、かえって自身を渦中の上に位置づけようとする試みになっている。兼好が筆を折り、世阿弥や利休が時の権力者から嫌われていくのも、この巧妙なマウンティングの企図が権力者側から読み解かれてしまったからだろう。/
当時、皇室が持明院統(後の北朝)と大覚寺統(後の南朝)に割れ、先鋭的な京極派が持明院統に付いたのに対して、定家以来の伝統技巧にこだわってこれを批判する二条派は大覚寺統に阿った。そして、素性不明の卜部兼好(1283?~1358?)は、二条派の下で歌人として名を成し、その四天王と呼ばれるほどになる。だが、その時間観は、いまさらながら定家の亜流とも言うべきものか。『徒然草』(26)では、家持の「茅花(つばな)抜く浅茅が原のつぼすみれ 今は盛りに茂る我が恋」(『万葉』八1449)を本歌取りした、藤原公実の「昔見し妹が垣根は荒れにけり 茅花まじりのすみれのみして」(『堀川院百首』)を引いている。
本人の作は、というと、こんなものがある。「春も暮れ夏も過ぎぬる 偽りの憂きは身に凍む秋の初風」(『兼好法師集』) これもまた、西行の「おしなべてものを思はぬ人にさえ、心を作る秋の初風」(『新古今』第四秋上299)からの本歌取りだろう。つねに自分の過剰な意識に苦しんだ西行が、この秋風を知ればほかのだれでも内面の寒さに気づくだろう、とするのに応じて、兼好もまた、春から夏、秋に至ってなお人の空約束に恨み辛みを抱く自分自身の内面にこそ憂さを見い出している。
名ばかりの出家をした後もまた、彼はこう詠む。「棲めばまた憂き世なりけり よそながら思ひしままの山里もがな」(『新千載』2106) これはどこの山里でも同じ。自分が棲めば、そこには自分も居て、その心中に憂き世がある。だから、逃げ場が無い。『徒然草』冒頭の一句、「徒然なるままに心に映りゆく由なしごとを書き付くれば、あやしうこそ、もの狂ほしけれ」もまた、西行の「心から心に思はせて 身を苦しむる我が身なりけり」(『山家集』1327)からの本歌取りとして理解すべきだろう。つまり、それは、暇にまかせて、などという呑気なものではなく、我が身の中に巣くうさまざまな長年の憂しことどもが、閑居とともにかえって時間集約的に次々と心に思い出されて噴き出し、これを書き物として吐き出さずには耐えられない、という苦しみである。
俗物禅風とニヒリズム:室町時代①
東国にあって王朝貴族の反逆を招いた鎌倉幕府の失敗から、室町幕府は京内に置かれた。ここにおいて禅宗は、渡来僧、夢窓疎石によって幕府に取り入り、南禅寺を中心に、天龍寺ほか、五山十刹を整え、漢詩文学、水墨絵画、書院建築、枯山水庭園など、禅風文化を将軍主導で強引に流行させる。しかし、国教化した当時の禅宗の実態は、幕府の資金稼ぎのための明との貿易商社であり、金融こそを主たる業務としていた。それがウリにした侘びとやらも、京都伝統の豪華絢爛たる王朝文化を否定することに重点が置かれた屈折した俗物趣味だった。そして、かつて武士の平家が京内にあって軟弱貴族化してしまったのと同様、足利将軍家もまた京の気風に染まって武士らしさを喪失。武装有力守護たちによる三管領四職の合議制によって京内の将軍権威が空洞化するとともに、将軍主導の俗物禅風文化をありがたがる者もいなくなっていく。
歴史
2022.01.21
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2023.06.06
2023.07.27
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。