無常を追う日本的無常観

2022.07.21

ライフ・ソーシャル

無常を追う日本的無常観

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/渦中の権勢の栄枯盛衰を横目に眺め、これをむなしい「無常」と断ずる。ところが、その言葉は、まさに渦中の権勢そのものに向けて発せられ、それにマウンティングすることで、かえって自身を渦中の上に位置づけようとする試みになっている。兼好が筆を折り、世阿弥や利休が時の権力者から嫌われていくのも、この巧妙なマウンティングの企図が権力者側から読み解かれてしまったからだろう。/

それにしても、なぜここまで源信は悲観的なのだろうか。平将門、藤原純友の乱(939~41)の後の十世紀後半は、朝廷はあいかわらず無策ながら先述のような民間主導で貴族や寺社の荘園が発達し、藤原家内の権力闘争はあったものの、大枠では摂関政治が確立して、戦乱の無い時代だった。しかし、気候は著しく不順で、干魃と洪水、暴風が繰り返し襲いかかり、延暦寺や内裏で火災が発生、976年には京都大地震があり、また、疱瘡をはじめとする疫病が流行。これはあい争う藤原家の人々も避けがたく、幾人かは命を落とし、このことがよけいに藤原家内の権力闘争を複雑にした。源信が『往生要集』を作ったきっかけも、師の天台座主、良源の病死だった。つまり、源信の無常観は、僧侶でありながら、およそ仏教の思弁的なものではなく、むしろ現実の惨状に即したものだった。

藤原道長(966~1028)もまた、かろうじて疫病の死線を越えて氏長者(貴族の頭領)となり、1004年に源信に帰依している。一般に、三女を後一条の皇后(中宮)に据え、太皇太后・皇太后・皇后の三つをともに自分の娘たちで占めた1018年十月十六日の夜の一族の宴席での「この世(夜)をば我が世とぞ思ふ 望月の欠けたることもなしと思へば」の歌(藤原実資『小右記』)をもって、その傲慢な専横が難じられるが、しかし、それは中秋の九月ではなく晩秋の十月、それも満月を過ぎた十六夜(いざよい)。もはや欠け始めた秋風の中の夜半の月をみなと眺めつつ、すでにありもしない望月をあえて詠って、「欠けたることもなし」ではなく、欠けたることもなしなどと思ってしまっている(已然形=完了)から、我が世だなどと思い誤る、と戒める。この倒置による意義反転の技巧にこそ、源信に心酔した道長らしい、陰影と夢幻に満ちた趣きがあった。

この道長の時代に、紫式部が『源氏物語』を著す。後に本居宣長がこれを「もののあはれ」を評し、一般に、しみじみとした情緒などと解されるが、宣長が言うのは、源氏の君と藤壺の不義の恋のように、儒仏の理非を越えた、業平のような俗世放縦不拘の人のありようであり、現代風に硬く言えば、理性で判別する以前の実存、ということだろう。967年に律令の施行細則「延喜式」が施行されたものの、人事も政策も恣意的に左右される荘園制摂関政治にあって、律令官僚制そのものが瓦解してしまっており、こんな建前を厳守せんとする者の方が嘲笑の対象にすらなっていた。その一方、心のままに不義や罪業にも甘んじる新しい生き方は魅力的な驚きであり、それがやがて勝負と外連に命を賭ける武士の登場を導く。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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