無常を追う日本的無常観

2022.07.21

ライフ・ソーシャル

無常を追う日本的無常観

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/渦中の権勢の栄枯盛衰を横目に眺め、これをむなしい「無常」と断ずる。ところが、その言葉は、まさに渦中の権勢そのものに向けて発せられ、それにマウンティングすることで、かえって自身を渦中の上に位置づけようとする試みになっている。兼好が筆を折り、世阿弥や利休が時の権力者から嫌われていくのも、この巧妙なマウンティングの企図が権力者側から読み解かれてしまったからだろう。/

むしろ南朝皇族の生まれと目される一休宗純(1394~1481)は、京内の臨済宗大徳寺にあって、体制国教化した禅宗を批判し、末法無戒とばかりに女犯男色、飲酒肉食を辞さず、禅宗最盛期唐代の風狂を体現して自由奔放に生きた。とはいえ、若いときには瀬田川で入水自殺未遂事件を起こしたりもしている。『一休道歌』に曰く、「なにごとも夢まぼろしと悟りては 実(うつつ)無き世の棲まひなりけり」と。無戒もなにも、世に実が無い。また曰く、「明日ありと思う心にほだされて 今日も空しく日を送りけり」。明日を思う心はあっても、その心のみで、今日は結局、空虚のまま。その明日とは、来世の浄土にほかならない。「極楽は十万億土はるかなり とても行かれぬ草鞋一足」。つまり往生さえも夢まぼろしと喝破する徹底したニヒリズム。

一休は漢詩も得意としたが、その格調高い文体に反して、内容的にはふざけたものが少なくない。しかし、三管領四職の内紛と対立で応仁の乱の気配が忍び寄る1460年八月末日には、被災した京の夜の町で浮かれ騒ぐ宴会の歌声を聞いて、こんな七言絶句を詠んでいる。「大風洪水万民憂 歌舞管弦誰夜遊 法有興衰劫増減 任他明月下西楼」。法も衰え、災いも増す世にあって、早々に朔月は西に隠れ、いまが闇夜なのは問うまでも無い。つまり、彼は、いまがもはや時間の無い永遠不変の末法にあると見ていた。

とはいえ、一休は、一世代も年下ながら同じく無戒奔放な浄土真宗の蓮如(1415~99)とも心を通じ、親しく交わった。このころ浄土真宗は関東の高田派が中心となっており、彼の大谷本願寺(現知恩院内)は、天台宗系の末寺でしかなかった。しかし、彼は荒びつつある京都で熱心に他力本願の真宗念仏を説き、急速に信徒を増やす。これを快く思わない本山天台宗延暦寺は、1465年、僧兵を使って襲撃。寺は潰され、蓮如一行は越前吉崎に逃れる。

しかし、67年に起きた応仁の乱は、その後、加賀富樫家にも及んだ。兄の政親は細川東軍に与したが、弟の幸千代は山名西軍を推し、これに真宗高田派がついたため、蓮如らはやむなく政親側に付くが、地元門徒(一向衆(宗))は蓮如の命と偽って武装一揆を展開。蓮如は74年には吉崎を去り、83年に山科本願寺を建てる。しかし、一向衆の支援で勝った富樫政親は、そのあまりの勢力に恐れをなし、この蓮如不在の間隙に弾圧に転じたため、88年、一向衆が蜂起。一向一揆で政親を自害に追いやる。こんなことが、蓮如の教えだったのだろうか。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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