/渦中の権勢の栄枯盛衰を横目に眺め、これをむなしい「無常」と断ずる。ところが、その言葉は、まさに渦中の権勢そのものに向けて発せられ、それにマウンティングすることで、かえって自身を渦中の上に位置づけようとする試みになっている。兼好が筆を折り、世阿弥や利休が時の権力者から嫌われていくのも、この巧妙なマウンティングの企図が権力者側から読み解かれてしまったからだろう。/
鎮護国家密教という無策:平安時代前期
中国語に長けた学僧、空海(774~835)が803年に、また、比叡山に籠もっていた官僧、最澄(766~822)が804年に遣唐使に。しかし、当時の唐は、シルクロード商人たちの反乱をウイグル人の援軍でかろうじて抑えた安史の乱(755~63)の後、外国勢力や地方藩鎮に翻弄され、すでに大帝国としての威光を失っていた。その仏教も、脱税目的で寺院や僧侶が乱立し、信仰も教学も衰えていた。そんな中で、最澄は智顗が法華経を中心に教学を確立した浙江省天台山に学び、空海は、首都長安に入って即身成仏を求める密教を修めた。
最澄は805年に、空海806年に帰国。最澄は、かつて籠もっていた比叡山に天台法華宗延暦寺を開く。一方、空海は、和気氏私寺の平城京西北山中、高雄山寺に入る。おりしも、薬子の変(810)など、藤原家内の政争に、鎮護国家の祈祷が要請され、最澄が空海に師事して、延暦寺でも密教の比重が高まる。もとより中国天台宗の開祖、智顗は、法華経とともに『摩訶止観』として三昧(瞑想)修養も説いており、ここでは観想念仏の複雑な作法が論じられていた。しかし、816年、空海が高野山を勅許下賜され、真言宗を開くに至って、両者の関係が悪化。かくして、最澄の延暦寺では、真言密教「東密」とは独立に、教学顕教の先に三昧修養の「台密」を置くようになる。
いずれにせよ、寺院勢力の介入を嫌って平城京に遷都したものの、この時期の仏教は、奈良時代と変わらず、法力に頼って鎮護国家を願う現世利益的なものだった。それゆえ、僧侶は朝廷の官吏であり、俸禄給付ほか、数々の特権を持っていた。しかし、それだけに「年分度者」(新規採用)は、各寺で人数制限されていた。ところが、免税僭称のために個人で勝手に出家してしまう「私度(しど)僧」が続出。貴族たちも、脱税のために私寺を建てまくって、ここに彼らをかくまい、朝廷も試験で彼らを官僧として追認。たとえば、第二代天台座主の円澄(772~837)は、私度僧出である。
どこまで史実かわからないが、当初より『伊勢物語』のモデルと目されてきた在原業平(825~80)は、皇族の生まれながら臣籍降下し、「身をえうなきものと思いなして」、京を離れ、道ならぬ恋愛に明け暮れ、和歌に遊び呆ける。いわゆる貴種流離のはしりだ。「世の中に絶えて桜の無かりせば 春の心はのどけからまし」(『伊勢』82=『古今』53)など、彼の歌には、あきらかに無常観があるが、それは俗世的な色事の艶であって、仏教的な枯れた抹香臭さは無い。そして、「月やあらぬ春や昔の春ならぬ 我が身ひとつは元の身にして」(『伊勢』4=『古今』恋5)もまた、去った女性(二条后)を詠んだものだが、「えうなきもの」としての悲しみは、むしろその無常から取り残された不変の相の側に我が身が生き続けていることにこそある。
歴史
2022.01.21
2022.06.19
2022.07.03
2022.07.16
2022.07.21
2022.10.27
2023.06.06
2023.07.27
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。