ほんとうにあったビーチフラッグス:1889年のランドラン

2023.07.27

開発秘話

ほんとうにあったビーチフラッグス:1889年のランドラン

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/正午。銃砲の号音とともに、彼らはいっせいに走り出す。とにかく番号が書かれた旗を見つければいいのだ。そして、それを抜いて自分の旗を突き刺し、所有を宣言。混乱と怒号。しかし、争っているヒマがあったら、前へ進んだ方がいい。その先にはまだいくらでも土地はあるのだから。走ったやつが勝つ。これこそが、アメリカンドリーム。/

夏の砂浜、ライフセーバーたちがうつ伏せに一線に並ぶ。が、寝ているのではない。緊張感が漲り、号砲とともに、全員が起きて向きを変え、20メートル先の旗へ突進。しかし、参加者より旗は少ないのだ。生き残りをかけた奪い合いが、わずか3秒で決する。オーストラリア国際大会を頂点として、日本でも国体に採り入れられている砂上競技の花形だ。

しかし、これは、もともとは遊びではない。1889年4月22日、オクラホマで5万人が旗をめがけて走った。いまでも航空写真でオクラホマシティ周辺を見ると、町も周辺農地もきれいな碁盤の目に区切られているのがわかるだろう。あの区画ひとつひとつに旗が立っていたのだ。

1930年の一方的な立法で、インディアン諸部族はミシシッピー川以西(後のオクラホマス州など)の乾いた荒野に強制移住させられた。46~48年の米墨戦争、49年のゴールドラッシュ、そして、61~65年の南北戦争で、中西部と西岸部を繋ぐトレイルが拓かれたが、その中間は、あいかわらずインディアンたちさえも住みたがらない無人の地のままだった。

奴隷制大農場の南部に対して、北部は自営農民の育成を図り、南北戦争中の62年、リンカーン大統領は、公有地を無償提供するホームステッド法を制定。これは、五年の居住耕作実績があれば、160エーカー(800メートル四方)の土地を獲得できる、というもの。しかし、乾いた荒野はもとより耕作不適で、この法律は、居住耕作実績を捏造して水源や鉱山を独占するために虫食い状に悪用されただけだった。

しかし、80年代にトレイルが鉄道に置き換わると、状況が一変する。なにも収益は農業だけで上げる必要は無い。鉄道のタイクーンたちも、空虚な中間部沿線の都市開発を歓迎した。鉄道を敷き終えた技術と労働力は、潅漑用水建設に振り向けられ、荒野が緑に変わる可能性が生まれた。おりしも、南北戦争で南軍側についたインディアン部族の土地が没収され、また、喰い詰めた部族も自分たちの使い物にならない土地を米国政府に買い戻させていた。

1タウンシップは6マイル(約10キロ)四方で、1マイル四方の36セクションからなり、1セクションが4家族160エーカーに分けられる。米国政府は、当時は空白だった現オクラホマシティのあたり200万エーカー(90キロ四方、東京大都市圏・京阪神大都市圏の人口集中地区と同じ)を、まず地図上で機械的に区分。そして、この土地無償提供の話を国内はもちろん、ヨーロッパにも広めた。このウソのような夢を追って、地主の搾取で農奴のような生活を強いられていた人々が、借金をしてでも米国行きの船に乗った。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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