/渦中の権勢の栄枯盛衰を横目に眺め、これをむなしい「無常」と断ずる。ところが、その言葉は、まさに渦中の権勢そのものに向けて発せられ、それにマウンティングすることで、かえって自身を渦中の上に位置づけようとする試みになっている。兼好が筆を折り、世阿弥や利休が時の権力者から嫌われていくのも、この巧妙なマウンティングの企図が権力者側から読み解かれてしまったからだろう。/
無常を断じる平安の栄華
雑駁な言い方ながら、西洋文化は過去から未来へ発展していく直線的な時間観を持つ一方、東洋文化は長期に同じことが繰り返される循環的な時間観を持つ、とされる。これに対し、日本は、四季の短期循環のためか、王朝文化のの時代から、反復の中に昨年との違いを意識し、そこに見えざる喪失の情感、あはれ、を感じる。
しかし、このズレ、差延、無常を知るためには、去年と今年との両方をまたにかける時間超越的な視点が必要になる。古くは、院政期に書かれた『大鏡』において藤原摂関家の盛衰を、時間超越的な190歳の大宅世継と180歳の夏山繁樹に語らせている。
僧形の俗物文化人たちもまた、栄枯盛衰を超越的する不動不変の立脚点を得るべく、「出家」を騙ったのだろうが、それはうまくいったのか。というのも、仏教、ことに浄土教や禅は、インド的な輪廻、中国的な易の循環の呪縛に対し、「家」などという永続機構を抜け出し、深山西方を臨み、あえて瞬間、瞬間の刹那に徹することで、無常の直中に飛び込んで、みずからもまた無常になりきることを求める。しかし、僧形の俗物文化人たちは、出家したとはいえ、結局のところ、粗末ながらも庵を建て、人里に寄生。むしろ旧知の人々との親交を以前以上に深めて暮らす。
唐木は、この有りようを「方丈の栄華」と評した。それは、疎まれ者のルサンチマンであり、ニヒリズムである。たしかに、持たざる者は、失うものも得るものも無く、不変であろう。それで、渦中の権勢の栄枯盛衰を横目に眺め、これをむなしい「無常」と断ずる。ところが、その言葉は、まさに渦中の権勢そのものに向けて発せられ、それにマウンティングすることで、かえって自身を渦中の上に位置づけようとする試みになっている。兼好が筆を折り、世阿弥や利休が時の権力者から嫌われていくのも、この巧妙なマウンティングの企図が権力者側から読み解かれてしまったからだろう。
もっとも、この離脱的実存様式は、俗物文化人に限らない。すぐに激昂する能動市民たちのアンガージュマンによって頻繁に暴動が起きる国々とは違って、この国では、庶民にとって、源平合戦も、関ヶ原も、戊辰戦争も、しょせん他人ごと。その意味では、安寧で平穏な生活が保たれる理想的な社会形態をなしている。
みずからは無常に浸ることなく、他人の無常を追うことで、その有為転変の差延を眺める永遠不変の存在として、無常の直上にたゆたって、みずからの平安な地歩を築こうとする。この奇妙な脱俗的な俗物のありように基づいて、無常観で知られる著名な人々の芸道や作品、それを愛でた人々、そして庶民の、連綿と現代にまで続く無常観を、いまいちど、再考する必要があるのではないか。
歴史
2022.01.21
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2022.07.21
2022.10.27
2023.06.06
2023.07.27
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。