/渦中の権勢の栄枯盛衰を横目に眺め、これをむなしい「無常」と断ずる。ところが、その言葉は、まさに渦中の権勢そのものに向けて発せられ、それにマウンティングすることで、かえって自身を渦中の上に位置づけようとする試みになっている。兼好が筆を折り、世阿弥や利休が時の権力者から嫌われていくのも、この巧妙なマウンティングの企図が権力者側から読み解かれてしまったからだろう。/
彼だけではない。貴族や官僧は、現実の有為転変から遊離し、法力による鎮護国家などという無益なことに明け暮れ、まったく行政無策に打ち過ぎた。その間に、私寺荘園、在家信徒たちは、遊行する私度僧の助言指導を得て、治水や潅漑、架橋や開墾に励んだ。平安中期に登場した空也(903~72)も、鎮護国家四天王信仰の尾張国分寺でとりあえずの出家の後、在俗のまま諸国を遊行し、「念仏」として、庶民をも極楽浄土に往生せしめるという阿弥陀仏の名号を唱えながら、橋を架け、寺を造り、庶民の帰依を集める。その上で948年になってようやく延暦寺で受戒した。
穢土の現実:平安時代中期
源信(942~1017)は、比叡山に学び、15歳で天皇に講じるほどになるが、「後の世を渡す橋とぞ思ひしに 世渡る僧となるぞ悲しき」と母に諫められ、山中横川に隠棲して念仏に専心し、『往生要集』(985)を編纂。これは、種々の仏教書から極楽往生のための念仏の意義効用についての文章を諸経から抜き書きしてきまとめたもので、基本は台密の観想念仏の三昧修養であり、空也のような庶民向けの称名念仏の易行ではない。
しかし、ここで注目すべきは、彼の世界観である。本来の仏教であれば、現世は無我であり、我執の煩悩が絶対的に叶いえぬ苦を生み出している虚仮にすぎない。だから、仏道に徹して煩悩を吹き消せば、現世にあってもそこがそのまま浄土となる。ところが、源信は、善人の死後の浄土行きを保証すべく、むしろ因果応報を主軸とし、このために、浄土の対概念、現世の罪業を死後、永遠に償わせる場として、インドや中国の通俗的な地獄を設定し、これをつまびらかに描き出す。
しかし、厭うべきは地獄のみではない。彼に拠れば、地獄はもちろん人の世もまた、不浄・苦・無常に汚されている「穢土」であるとされる。ここでまず、彼は『宝積経』などを引き、当時からすれば驚くほど正確な人体解剖と寄生虫(病痾)の解説をもって、人を化粧した糞便瓶と言う。ついで、苦については、仏教としての我執による一切皆苦などという思弁的な法印ではなく、四百四病の内の苦しみ、災厄刑罰の外の苦しみを具体的に説く。そして、無常については、『摩訶摩耶経』などから、日々を、屠殺場に近づく牛の歩みに喩え、若さは失われ、気力は損なわれ、栄えは衰え、会うは別れ、現世にあるかぎり、強きも賢きも死を免れえない、とする。だから、この脆い身に、財を集め、快を貪るのではなく、むしろこの世を厭い、死と浄土にこそ備えるべきだ、と彼は説く。
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2023.07.27
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。